凡庸

週一くらいが目標です。

クリスマス(中略)なんちゃって。

 本当はクリスマスが好きだった。

 子どものころ、クリスマスが近くなると家族で都会へ行くのが恒例だった。「恒例だった」なんて言うけれど実際は2、3回行ったことがある程度のことだったかもしれない。

 親父の運転する車で名古屋へ向かい、車の窓からは林立するビルが見えた。どこか広い駐車場に入って車を停めて、街に出ると高い建物と大勢の人で、兄弟で「都会に来たね」と言った。

 東急ハンズの入っているビルを上から下まで、クリスマスの飾りつけを探しながら全然関係ないフロアもああだこうだ言いながら見てまわった。お昼ご飯は確か地下に降りて行ったところにあったピザのシェーキーズで、親父の「大学の部活の前にみんなでたらふく食べて、その汗がチーズくさくなってかなわなかった」という話を聞きながら、店に入って初めに渡されるプラスチックのコインと引き換えに受け取ったコーラを飲みながら、ピザやポテトを何度もおかわりした。

 高島屋も見てまわったけれど、子どもの兄弟はそろそろ疲れていたころで母親の服屋めぐりにすこし辟易した。たぶん服なんかも買ってもらったんだと思うけれど、それより最後に百貨店の中のおもちゃ売り場を見に行ったような記憶がある。そこで何か買ってもらった覚えはない。たぶん。

 そういえば百貨店に入る前に、これもまた地下にあるケーキ屋でケーキも食べた。「ここのミルフィーユがおいしいんだよね」と訳知り顔で言い合う両親を見て、その、都会に行きつけの店がある都会馴れした感じがカッコいいじゃないかと思っていた。今になって思えば、もしかすると彼らがもっと若かった頃にデートで来ていた店だったのかもしれない。もう少し大きくなって自分で行ってみたくなって、何かのときに所在を聞いたけれどもうなくなってしまったとかなんとか言われた気もする。そのミルフィーユがとてもおいしかったのか、その記憶が楽しかったからか、いまだにケーキの中ではミルフィーユは密かに結構好きなケーキである。

 暗くなってあちこちのイルミネーションも見てまわった。田舎じゃ見られないたくさんの大きな建物にまばゆい電飾がちりばめてあって、その(両親もふくめた)みんなのうわついた雰囲気が好きだった。

 駐車場へ戻る帰りに、名古屋のラジオ局のZIP-FMのステッカーをもらったこともあると思う。実家のおもちゃ箱か何かに貼りつけてあるはずだ。そのおもちゃ箱がまだどこかにあるなら。

 そうやって買ってきたクリスマス飾りを部屋のダイニングに飾り付けて、僕たち長男同士が同い年で仲のいい隣家の家族たちと一緒にクリスマスパーティをした。さっきのZIP-FMでクリスマスソングをかけながら、ケーキを食べたり遅くまでみんなでゲームをしたりして楽しかった。たぶん大人たちも楽しそうにしていたと思う。

 本当は結構大きくなるまでサンタクロースを信じていたような気もする。きっと正体は両親だと思いつつ、それでも、そんなにきちんと欲しいものを伝えていなかったはずのプレゼントが、毎年クリスマスの朝になるとジャストに僕たち兄弟の欲しいものがそれぞれの枕元にあるのが不思議だった。なんでこんなにもぴったりなんだと、そこでサンタを信じたい気持ちもあったのかもしれない。というよりサンタクロースみたいな両親を信じていたのかもしれない。

 もう少し大きくなると女の子とのクリスマスに右往左往したりしなかったりするようになるんだけれど、まあそれもいいクリスマスだとして、やっぱり本当は僕もクリスマスが好きだ。なんか楽しい。

 もうすぐ引っ越す予定もあるので、とりあえず来年のクリスマスから、我が家にもクリスマスツリーを飾れるようになるといい。ぶら下げるオーナメントを年々増やしていこう。

経年劣化を退屈しのぎにする

 ちょっと恥ずかしくてありきたりな話を書く。 

 

 かれこれ3年くらい使っているCASIOの腕時計を気に入っている。いわゆるチープカシオというやつで、ネットで1,000円くらいで買った。薄くて軽くて小さくて、付け心地という点においてはこれ以上の機能のものは考えられないので、安物の時計と思いつつもずっとつけている。少し前にウレタン製のバンドが切れてしまい、100均で替えのものと交換用の工具を購入し、バンドを付け替えた。デジタルの文字盤も大小の傷だらけである。

 先日家内のほうの親戚が集まり、小学校にあがったばかりの甥っ子に会った。彼は友達と遊ぶのが楽しすぎるのか家に帰る時間を忘れがちなので、16:50になるとアラームが鳴るように設定された腕時計を親からプレゼントされていた。それを僕に自慢してくれた。お揃いのチープカシオだった。

 お揃いだよ、と教えてあげると、おそろいやー!おそろいー!ねえねえお父さん、おじさんとおそろいだったよー!ねえねえ、おそろいー!とずいぶんと喜んでくれて、おじさんも嬉しい。そして僕のもとへ戻ってきて、お互いの時計をしげしげと見比べて「でも僕のやつのほうがピカピカやね、おじさんの傷ついてる」と言った。

 それがいいんじゃないか。君のはまだ新品でピカピカだから、ほかの新品の時計と一緒だよ。でもおじさんの時計は傷だらけになってて、この傷がついてる時計はこの世界でおじさんの時計だけだよ。ほら、バンドも切れちゃったから自分で交換したんだ。

 そう大人げなく自慢すると、実に素直に、すげー!おとうさーん、おじさん自分でバンド交換したんやってー!とまた驚いてくれた。

 少年よ、いっぱい遊んで、いっぱい時計に傷をつけるんだ。エイジングってやつだ。

 

 この「エイジング」という考え方が結構好きだ。こどもがなにかしでかしてテーブルなんかに傷がついたりすると家内は嫌がる。でも僕としてはそうやって身の回りのものを傷つけながら育てていくのはいいことだと思う。10年近く前に家内にもらった財布もすっかりボロボロで見ようによってはみすぼらしいけれども、そこが気に入っている。

 ものぐさな自分の性格と非常に相性がいいこともあり、身の回りのものを傷つけてエイジングさせて育てていっているんだと思っている。おかげでいろんなことにおおらかになれたような気がする。

 

 さて、こないだ駅の改札を通ろうとICカードの入った財布を取りだした。そのときふとこのすっかりエイジングした財布と「目が合った」。

 目が合った瞬間に、それこそ正確な意味で、自分自身のエイジング…という考えが頭をよぎった。自分自身のエイジング、傷ついて自分はユニークになっていっているか。

 

 ここのところ、朝に仕事にでかけ、夕方に帰り、家族で食事をし、子どもたちを風呂に入れ、少し過ごしたら歯を磨き上の子と寝室に入るとたいてい一緒に寝てしまい、また次の朝が来るという生活が続いている。

 毎日必要なことをし、健康的なリズムの中で生活しているので、まったく傷つきようもない。働いて、食事をとり、こどもたちと遊び、早く寝る。

 贅沢なことだとは思うけれど少し退屈を感じていた。暇ではない。起きている間しなくてはいけないことがずーっと続いている。暇ではないのだけれど退屈だった。

 エイジングするには傷つかなくてはいけない。傷つくためには何かにぶつかったりする必要がある。おだやかに流れる日常のなかでは何かにぶつかることはそうない。

 なにかにぶつかってみたいと思う。傷がつくのはすこし怖いけど、あのときのこれ、というのを自分に残したいと思う。

 そうはいっても家族に迷惑のかからない範囲で、という但し書きがいる。うーん、しばらくは自分もゆったりとした流れに身を委ねるなり、家族のケースの中に入れておくなりするしかないのかもしれない。そもそも傷をつけて云々というエイジングの仕方をするライフステージでもないのかもしれない。

 

 でもやっぱりなにかにぶつかってしまって、傷がついてしまうようなエイジングにあこがれている。

重なった時のうねりも写ルンです。

 子どもを二人抱える身分になってしばらく経った。二人目ともなると家内の育児も堂に入ったもので、上の子のときに比べたらかなり精神的に安定している。母乳が潤沢に出て、かつ相当に栄養価が高いようで、一日に何度も授乳せずとも赤ん坊はすやすやと眠ってまるまると太っていく。頼もしい限りだ。

 お姉ちゃんになった上の子はというと赤ん坊が泣いていると釣られてしまうのか、一緒になって機嫌が悪くなってゴネたりすることが多くなった。でもそりゃそうだよね、お母さんとお父さんも初めての赤ちゃん(君のことね)が泣いてたらずいぶんと不安にさせられたものだよ。そりゃ君だって初めて赤ちゃんと暮らすんだから色々大変だよね、と思う。

 とはいえ上の子もグングンとお姉ちゃんになっていき、話すことの理路も整然としつつあるし、夜のオムツもとれた。親は何にもしていないのに少しずつ世の人と同じようなことができるようになっていく。

 

 上の子の最近のお気に入りはトトロで、僕がメイちゃんの物まねを要求すると「わたしはメイ、あなたは?……と~と~ろぉ~~……トトロ?あなたトトロっていうのね?」という一連の流れをひとり二役でやってくれる。そんなに似ているわけではないけれど「あなたトトロっていうのね?」の部分が幼児らしいイントネーションで非常にリアルでおもしろくって、何度もリクエストしてしまう。リクエストを繰り返すうちに、最近はなんだか恥ずかしがってしまって、ちゃんとやってくれない。今度きちんとやってくれるときには必ずムービーに残したいと思う。

 こないだ100ピースくらいのトトロのパズルを買った。一緒に作ったり壊したりを何度もやるうちに上手に作れるようになってきた。えらいぞ。

 

 読みたい読みたいと思いつつも手が出なかった、ガルシアマルケスの『百年の孤独』をようやく読んだ。大変面白くて心のベストテン第何位だかには入ると思う。

 これはある一族の始祖になる男女が元の村から出て、新たな土地に村を開き、そしてその(一癖も二癖もある)子孫たちの繁栄と村の滅亡を書いた小説だ。とくにきちんとした起承転結があるわけではなく、さまざまな挿話が重なって大きな時のうねりを作り出している。その挿話や登場人物のいじらしさと、大きな時のうねりが魅力だ。まともな起承転結がないので、普通の小説のようにストーリーのその先に待つ何者かへの期待をモチベーションに読み進める読み方は難しい。しかしそれにも関わらずグイグイと読んでいってしまう不思議な小説だった。

 この物語には同じような名前を持つ男の子孫たちが繰り返し登場する。彼らは同じ名を持つ子孫であって同一人物ではない。しかし同じ名を持つ男たちは、どこか同じような気質を持ち、同じような失敗を繰り返し、同じように破滅したりする。

 僕は自分自身は自分自身でしかあり得ず、他の何物でもないと思い込んでいる。先日、面白がって子どもたちを写ルンですで撮ったのを現像に出してみた。写ルンですで撮るとなんだか昔の写真のような独特の質感が出て面白い。その写真をパラパラと見ながらふと不思議な感覚があった。

 そこに写された我が家の長女が、なんだか僕の祖母の幼いころのように見えたのだ。以前からこの子は僕の祖母によく似ていると思っていたし、家族にもそう言っていた。でもその時にはとてもすんなりというか、直感的にというか、写ルンですの古い質感も相まって娘と祖母がほとんど重なって見えた。娘からしたら曾祖母だ、まだ元気な祖母には縁起でもない言い方になるかもしれないけれど、ひ孫からしたら半分先祖みたいなものだ。

 で、何が言いたいかというと『百年の孤独』で何度も登場する「アウレリャーノ」たちのように、あるいは4世代くらいの間隔が空いてもなお顔の似ている娘と祖母のように、この僕にだって、何世代か前には似たような顔で似たような気質の人間がいたのかもしれない。

 最近、本当に最近、ふと「死んだら自分はどうなるのか」と考えてしまい猛烈に怖くなって冷や汗をかき胸がドキドキすることが何度かあるのだけど、とりあえず「僕が死んでも、何世代かあとに似たようなやつが現れるかもしれない」ということにしてドキドキを抑えている。とはいえ僕自身が消えてなくなってしまうことが怖いのには変わりないけど。

 なんか変な話になってしまった。

 

 赤ん坊がいるので上の娘を特にこれといってどこへも連れて行ってやれなかったけれど、まあのんびりと楽しく過ごした夏でした。