凡庸

週一くらいが目標です。

凡庸の凡庸3

 ブログを書くために今からブログを書くので、何を書いたらいいのかわからない。家族とのことをいろいろ書きたいのだけど、いつの間にやら子どもたちはずいぶん大きくなった。

 下の子は少ししゃべる。椅子からものを落としては「おてぃたー」と言って拾うように命じてくる。その通りにしてやるとわざと落としてまた「おてぃたー」と言う。まあ、自分の言葉がちゃんと相手に通じて思い通りのアクションをしてくれるのはうれしいもんね、と思いつつ拾ってやるとまたガチャンと落として「おてぃたー」と言っている。他にも「あっち!」とか「わんわ!」とか言ってる。あ、家の階段上るときとかは「えぃし、えぃし」と言って上っている。わりと言葉は通じてるような気がする。でもこんなにわかるのにこっちの「ダメ」はわかろうとしない。勝手なやつだ。

 いないないばあとか手遊びとか、まんまと喜んでくれるし笑ってくれる。小さい子のちょっとぎこちない笑い声は、どうしてもつられてこっちも笑ってしまう。笑いかけられてもつられて顔がにやけてしまう。最近ではしっかり立っているので、歩くなる日も近そうだ。早いなあ、ちょっと寂しい。

 上の子はすっかり話も通じるし、ある程度のことは自分でできてしまう。最近気になるのは、保育園で進級して、ちょっとしつけられ方が厳しくなったのか、行きがけにぐずることが多くなってきた気がすることだ。以前ほど自由放埓に過ごせないのが窮屈なのだろうか。でもなー、世の中ってそうなんだよなー、と思うし、でもうちの子はできるだけのびのび育ってほしいとも思う。休みの日は楽しくやろうや。

 もう思いついた順から書くけど、こないだ久しぶりにクラブに行った。そりゃあもう楽しかった。大きな音が出てるところでビール飲みながらふらふらと踊るのは楽しい、また行きたい。また行きたいのだけれど、そうもいかない身分だ。たまににしないとなー。

 独身の間や、子どもができる前にもっと行っておけばよかったと思う。思うんだけど、たぶんもう少ししたら「子どもが小さい間にやっておけばよかった」と思うようなことも、いま起きていたり見逃していたりするんだろう。何だろうな。

 いま、二人ともすっごくなついて、べたべたと甘えてくれる。あぐらをかいて座っていると、まあ上の子はスッと座ってくるのだけれど、上の子がいないときには下の子もえっちらおっちらとハイハイでやってきてよっこらせと座ってくる。わりとお父さんは好かれているようだ。こういうのもあっという間なんだろうな。

 そりゃ今日が自分は一番若くて、だからこそやりたいこともいろいろある(気がしている)。でもこんなに小さくてかわいいのも今のうちだよなーと思う。悩ましい。

 実家に帰省したら、両親が孫のためにビニールプールを用意していた。下の子はまだ入れないけれど、上の子は連日きゃっきゃとそのプールではしゃいでいた。その帰省中に母親が写真を持ってくるので何かと思えば、素っ裸の小さな兄弟がビニールプールに浸かっている。ちょうど今の娘たちくらいのころの、僕たち兄弟だった。そうかー、息子が30も過ぎて孫を連れて帰ってくるような歳になっても、小さかった頃は懐かしいのか。僕もちゃんと娘たちの写真を撮っておこう。ブログも残しておこう。

 これ紙にのこしておいたほうがいいんかな。家内に見られるのちょっと嫌だけど。

 とりあえず久しぶりにブログ書けたことにしておわり。

クリスマス(中略)なんちゃって。

 本当はクリスマスが好きだった。

 子どものころ、クリスマスが近くなると家族で都会へ行くのが恒例だった。「恒例だった」なんて言うけれど実際は2、3回行ったことがある程度のことだったかもしれない。

 親父の運転する車で名古屋へ向かい、車の窓からは林立するビルが見えた。どこか広い駐車場に入って車を停めて、街に出ると高い建物と大勢の人で、兄弟で「都会に来たね」と言った。

 東急ハンズの入っているビルを上から下まで、クリスマスの飾りつけを探しながら全然関係ないフロアもああだこうだ言いながら見てまわった。お昼ご飯は確か地下に降りて行ったところにあったピザのシェーキーズで、親父の「大学の部活の前にみんなでたらふく食べて、その汗がチーズくさくなってかなわなかった」という話を聞きながら、店に入って初めに渡されるプラスチックのコインと引き換えに受け取ったコーラを飲みながら、ピザやポテトを何度もおかわりした。

 高島屋も見てまわったけれど、子どもの兄弟はそろそろ疲れていたころで母親の服屋めぐりにすこし辟易した。たぶん服なんかも買ってもらったんだと思うけれど、それより最後に百貨店の中のおもちゃ売り場を見に行ったような記憶がある。そこで何か買ってもらった覚えはない。たぶん。

 そういえば百貨店に入る前に、これもまた地下にあるケーキ屋でケーキも食べた。「ここのミルフィーユがおいしいんだよね」と訳知り顔で言い合う両親を見て、その、都会に行きつけの店がある都会馴れした感じがカッコいいじゃないかと思っていた。今になって思えば、もしかすると彼らがもっと若かった頃にデートで来ていた店だったのかもしれない。もう少し大きくなって自分で行ってみたくなって、何かのときに所在を聞いたけれどもうなくなってしまったとかなんとか言われた気もする。そのミルフィーユがとてもおいしかったのか、その記憶が楽しかったからか、いまだにケーキの中ではミルフィーユは密かに結構好きなケーキである。

 暗くなってあちこちのイルミネーションも見てまわった。田舎じゃ見られないたくさんの大きな建物にまばゆい電飾がちりばめてあって、その(両親もふくめた)みんなのうわついた雰囲気が好きだった。

 駐車場へ戻る帰りに、名古屋のラジオ局のZIP-FMのステッカーをもらったこともあると思う。実家のおもちゃ箱か何かに貼りつけてあるはずだ。そのおもちゃ箱がまだどこかにあるなら。

 そうやって買ってきたクリスマス飾りを部屋のダイニングに飾り付けて、僕たち長男同士が同い年で仲のいい隣家の家族たちと一緒にクリスマスパーティをした。さっきのZIP-FMでクリスマスソングをかけながら、ケーキを食べたり遅くまでみんなでゲームをしたりして楽しかった。たぶん大人たちも楽しそうにしていたと思う。

 本当は結構大きくなるまでサンタクロースを信じていたような気もする。きっと正体は両親だと思いつつ、それでも、そんなにきちんと欲しいものを伝えていなかったはずのプレゼントが、毎年クリスマスの朝になるとジャストに僕たち兄弟の欲しいものがそれぞれの枕元にあるのが不思議だった。なんでこんなにもぴったりなんだと、そこでサンタを信じたい気持ちもあったのかもしれない。というよりサンタクロースみたいな両親を信じていたのかもしれない。

 もう少し大きくなると女の子とのクリスマスに右往左往したりしなかったりするようになるんだけれど、まあそれもいいクリスマスだとして、やっぱり本当は僕もクリスマスが好きだ。なんか楽しい。

 もうすぐ引っ越す予定もあるので、とりあえず来年のクリスマスから、我が家にもクリスマスツリーを飾れるようになるといい。ぶら下げるオーナメントを年々増やしていこう。

経年劣化を退屈しのぎにする

 ちょっと恥ずかしくてありきたりな話を書く。 

 

 かれこれ3年くらい使っているCASIOの腕時計を気に入っている。いわゆるチープカシオというやつで、ネットで1,000円くらいで買った。薄くて軽くて小さくて、付け心地という点においてはこれ以上の機能のものは考えられないので、安物の時計と思いつつもずっとつけている。少し前にウレタン製のバンドが切れてしまい、100均で替えのものと交換用の工具を購入し、バンドを付け替えた。デジタルの文字盤も大小の傷だらけである。

 先日家内のほうの親戚が集まり、小学校にあがったばかりの甥っ子に会った。彼は友達と遊ぶのが楽しすぎるのか家に帰る時間を忘れがちなので、16:50になるとアラームが鳴るように設定された腕時計を親からプレゼントされていた。それを僕に自慢してくれた。お揃いのチープカシオだった。

 お揃いだよ、と教えてあげると、おそろいやー!おそろいー!ねえねえお父さん、おじさんとおそろいだったよー!ねえねえ、おそろいー!とずいぶんと喜んでくれて、おじさんも嬉しい。そして僕のもとへ戻ってきて、お互いの時計をしげしげと見比べて「でも僕のやつのほうがピカピカやね、おじさんの傷ついてる」と言った。

 それがいいんじゃないか。君のはまだ新品でピカピカだから、ほかの新品の時計と一緒だよ。でもおじさんの時計は傷だらけになってて、この傷がついてる時計はこの世界でおじさんの時計だけだよ。ほら、バンドも切れちゃったから自分で交換したんだ。

 そう大人げなく自慢すると、実に素直に、すげー!おとうさーん、おじさん自分でバンド交換したんやってー!とまた驚いてくれた。

 少年よ、いっぱい遊んで、いっぱい時計に傷をつけるんだ。エイジングってやつだ。

 

 この「エイジング」という考え方が結構好きだ。こどもがなにかしでかしてテーブルなんかに傷がついたりすると家内は嫌がる。でも僕としてはそうやって身の回りのものを傷つけながら育てていくのはいいことだと思う。10年近く前に家内にもらった財布もすっかりボロボロで見ようによってはみすぼらしいけれども、そこが気に入っている。

 ものぐさな自分の性格と非常に相性がいいこともあり、身の回りのものを傷つけてエイジングさせて育てていっているんだと思っている。おかげでいろんなことにおおらかになれたような気がする。

 

 さて、こないだ駅の改札を通ろうとICカードの入った財布を取りだした。そのときふとこのすっかりエイジングした財布と「目が合った」。

 目が合った瞬間に、それこそ正確な意味で、自分自身のエイジング…という考えが頭をよぎった。自分自身のエイジング、傷ついて自分はユニークになっていっているか。

 

 ここのところ、朝に仕事にでかけ、夕方に帰り、家族で食事をし、子どもたちを風呂に入れ、少し過ごしたら歯を磨き上の子と寝室に入るとたいてい一緒に寝てしまい、また次の朝が来るという生活が続いている。

 毎日必要なことをし、健康的なリズムの中で生活しているので、まったく傷つきようもない。働いて、食事をとり、こどもたちと遊び、早く寝る。

 贅沢なことだとは思うけれど少し退屈を感じていた。暇ではない。起きている間しなくてはいけないことがずーっと続いている。暇ではないのだけれど退屈だった。

 エイジングするには傷つかなくてはいけない。傷つくためには何かにぶつかったりする必要がある。おだやかに流れる日常のなかでは何かにぶつかることはそうない。

 なにかにぶつかってみたいと思う。傷がつくのはすこし怖いけど、あのときのこれ、というのを自分に残したいと思う。

 そうはいっても家族に迷惑のかからない範囲で、という但し書きがいる。うーん、しばらくは自分もゆったりとした流れに身を委ねるなり、家族のケースの中に入れておくなりするしかないのかもしれない。そもそも傷をつけて云々というエイジングの仕方をするライフステージでもないのかもしれない。

 

 でもやっぱりなにかにぶつかってしまって、傷がついてしまうようなエイジングにあこがれている。