凡庸

週一くらいが目標です。

23時過ぎの純情な純情(大人編)

樹木希林さんが亡くなったんですよね。この間『万引き家族』を観て、老人特有のあのなんか曖昧な感じを演技でやってはって「おいおい樹木希林マジでボケちゃったわけじゃないよな」とちょっと心配になるくらいに生々しくてドキドキした。

あんなキレキレにシニカルな浮世離れしたおばあさんが、どうしてあんなフツーのおばあさんっぽくて、でも歳相応のいろんなものを抱えたフィクションのおばあさんになれちゃうんでしょうね。すごいなあって思って観てた。 

残念ですね。

 

あとドキドキさせられたのは安藤サクラ。二回くらい泣かされそうになった。

泣かされそうになったシーン以外にも安藤サクラにドキドキするシーンがあって、まあ当然ラブシーンなんですが、僕の好みじゃない、っていうか一般的な美人じゃない(よね?)安藤サクラのエロさの生々しいこと!

で、安藤サクラの色っぽさに目を奪われつつ、あのラブシーンの流れ?そのものの生々しさも見ててうわーってなった。いい歳して恥ずかしかった。

シーンは、クーラーのない部屋で安藤サクラリリーフランキー下着(とシュミーズ)姿でソーメン食べつつ、なんとなーく安藤サクラから迫ってセックスするっていうシーン。

女性のほうからセックスを迫るあたりもさることながら、明らかに迫られてるんだけどリリーフランキーがその雰囲気をごまかそうとするのって、大人のセックスってそうだよなあって、なんだか納得してしまった。

大人はセックスが始まってしまうのが、すこし面倒くさいと思ってしまうんじゃないかと思っている。

 

もちろんセックスはいいことだし、できるならしていきたい。だけど大人になるとセックスするのって色々と大変だ。

日常生活からシームレスにそういうムード作るの難しいし、そういうムードができても布団とかそういう準備しないといけないし、準備しながらちょっと笑っちゃいそうだし、時間ないから若い頃みたいに時間かけて好きなだけしてるわけにもいかないし、体力落ちてるから上手にできるかわからないし、上手にできなかったら泥仕合みたいになって申し訳ないし、してる最中だって邪魔が入るかもしれないって落ち着かないし、終わってからものんびりまったりしてられないし。

 

ちょっと考えただけでも、こう、大人はいろいろ大変なんだよ。

 

作中ではソーメン食べながらなし崩しに畳の上で始まって、裸のままゆったりしてたら子どもたちが帰ってきて慌てて服を着る、みたいな流れでした。

終わってから裸のままのリリーフランキーが「ちゃんとできたな」って何度も言ってて、あー、わかるわー、ちゃんとできるとホッとするんだよな。

セックスしたあと、その日の間は安藤サクラがご機嫌だったのも、なんかわかるなあと思った。あるよねー。

 

夜になってから、大人がセックスできるだけの体力とか時間とかある世の中だといい。だってセックスしたいじゃん、できるだけ。せっかく大人になって好きな人と暮らしてるんだよ?誰もダメって言わないじゃん、こんなにセックスすべき状況もないよね。でも思うようにできてないし、なんかいろいろ考えちゃってうまく気が乗らない。困った。

そうやって別に積極的な理由があるわけでもないんだけどなんとなくセックスしないまま生活して、じゃあ死ぬまでにあと何回セックスがあるんだろう。

死ぬまでにとか大げさなこと言わずとも、今ちょっとでも若い自分たちが「なんとなく」とかそういう理由でチャンス逃してて、あとからどう思うんだろう。

 

もうちょっとカジュアルにできたらいい。

「ちょっとどうですか」って恥ずかしがらずに言えたらいい。軽く済ませたり、「あ、今日ダメかも」「しょうがないねー」つってふわっと終わったりできたらいい。そうしたらいろいろ考えすぎちゃうことなく、もう少しお互いにハードル下がるんじゃない?若い頃みたいにギラギラしながら死にそうになりながらセックスするこたあないんだよ。

大人のやりかたをちょっとずつ覚えなくちゃいけない。

 

AVが悪いよね(世話になってるけど)。あれが確実にセックスのハードル上げてると思う。ハードでもマニアックでもないAVだったとしても、AVのスタンダードなセックスって、現実にはフツーにめちゃくちゃハードプレイだと思うけど、あれくらいしかお手本ないから、「あんなんできねー」って思っちゃってセックスが面倒になっちゃうみたいなところはあると思う。いやあんな総合格闘技みたいなセックスは素人には無理だってば。

体力の落ちた大人にもできるセックスのお手本があるといいですね。そんなめちゃくちゃ体位変える必要ないんですよー、無理に大声出さなくてもいいんですよー、地味ーにやっていいんですよーみたいな。

ハードル下げて、無理なく日常生活に取り入れて行きましょう。体力増進、精神安定にもいい気がするし。

 

ていうか実は世の中の大人たちはちゃんとセックスしてて、こんなこと考えてるのは僕だけだったりして。そうなん?

非日常を期待した罪悪感でどもる体。

 こないだ友人と話していて、ふと自分のいま置かれている状況がなんか、正しい、みたいなことを言った。たしか言われたんじゃなくて自分で言ったような気がする。

 30過ぎて、結婚してて、夫婦で多くはないけれどそれなりに収入は安定していて、二人の子どもがいて、持ち家に住んでいる。なんかフツー(凡庸)だ。これを自分で「正しい」とか言っちゃうのは完全に傲慢だと思うけれど、酔っぱらった席の言葉として勘弁してほしい、どうか。

 このフツーさに、例えばゼロからもう一度たどり着け、と言われたらたぶん無理だ。いろんな人に生かされていまここにいるので、もう一度お願いします、と言ったところで愛想をつかされるだろう。ありがたやありがたや。

 そういうありがたやありがたや、を前提として、なんかこう、フツーじゃなさにも憧れる。いや、そういうと大げさだな。今日とちょっと違う明日が来るかも、みたいな予感の中で生きていたい、みたいな?そういう感じがある。別に明日が違う日じゃなくてもいい。来週のこの日はちょっと非日常だぞ、という期待とか予定があってほしい?いや、そういうおもしろイベントも確かに欲しいけど、もうちょっとこう自分とか環境がじわっと変わっていくような?そういうのがほしい。しかも今のフツーさは守ったまま。

 わがままだよな、と思う。家内にはこんなにもよくしてもらって、楽しく生活を共にしてくれていて、子どもたちの日々の成長は楽しいしかわいい。これ以上新たな何を望むのか、とそういうのは重々承知だ。(でも承知してないからこんなこと言ってるのか?)

 現状維持以上のものを望むのは、現状を共にしている人たちに悪い気がする。変化を求めてしまうのは、身の回りの人たちに「君たちに満足していないんだよ」って言っていることのような気がして。なんか、思うだけでもちょっと罪悪感がある。

 なんなんでしょうね。

 罪悪感を自覚しながらこういうことを言葉にして書いている。かいちゃだめな痒い所をかいている。そういう背徳感を、びくびくしつつも楽しんでいるので、これは不良的な行為のブログです。

 

 こういう内容も始めから書こうと思って書いているわけじゃなくて、書いているうちになんだかこういうことになった。しゃべっているときもそうで、特にお酒でも飲んでいるときに顕著なのだけれど、でも普段だってある程度そうなのだけれど、口に出してしまったその後に自分が何を考えていたのかわかることがある。

 これって不思議だよなーと思っていたら、そういうことについて書かれた本があった。最近読んで面白かったのでここで紹介しておきます。

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

  リンクを踏んでもらえばどういう本なのかわかるかと思いますが、吃音の研究を通して、しゃべる(体を動かす)ってどういうことなの?ほんとに全部自分の思い通りにやってるの?ということを考える本です。

 会話において何か言葉を発する、そのためには身体的にかなり複雑なことをやってのけているというのはちょっと想像すればわかることだ。でもその複雑な動きは意識されることなく、フツーの人は難なく自然にやってのけている。つまり身体がセミオートで身体を動かすことで、我々はしゃべっているというのだ。

 すごくないですか?僕たちはみんなセミオート(あるいは完全にオートマティック)にしゃべってるんですよ。

 そして、しゃべることがフツーにはできない人=吃音の人たちは、しゃべるという行為をセミオートに任せることができないので、フツーに話せるように色んな工夫をするそうです。そしてその工夫の中でさらに「自分の話したかったこととは」みたいな葛藤が生まれる、というような話が書いてあります。

 詳しいところの話はご興味があれば読んでみてください。読んだら感想の話とかしましょう。

 

 だから何、って大したことも言えないんだけど、たぶん僕たちの頭で考えられることには限界がある。時々はこうして書いてみたり人に話してみたりして、体のしたいままに任せてあげるのはとても大事なことなんだと思う。

 みんな、ブログ書きましょうよ。なんとなく生活しているところとか、考えているところとか読みたいです。

凡庸の凡庸3

 ブログを書くために今からブログを書くので、何を書いたらいいのかわからない。家族とのことをいろいろ書きたいのだけど、いつの間にやら子どもたちはずいぶん大きくなった。

 下の子は少ししゃべる。椅子からものを落としては「おてぃたー」と言って拾うように命じてくる。その通りにしてやるとわざと落としてまた「おてぃたー」と言う。まあ、自分の言葉がちゃんと相手に通じて思い通りのアクションをしてくれるのはうれしいもんね、と思いつつ拾ってやるとまたガチャンと落として「おてぃたー」と言っている。他にも「あっち!」とか「わんわ!」とか言ってる。あ、家の階段上るときとかは「えぃし、えぃし」と言って上っている。わりと言葉は通じてるような気がする。でもこんなにわかるのにこっちの「ダメ」はわかろうとしない。勝手なやつだ。

 いないないばあとか手遊びとか、まんまと喜んでくれるし笑ってくれる。小さい子のちょっとぎこちない笑い声は、どうしてもつられてこっちも笑ってしまう。笑いかけられてもつられて顔がにやけてしまう。最近ではしっかり立っているので、歩くなる日も近そうだ。早いなあ、ちょっと寂しい。

 上の子はすっかり話も通じるし、ある程度のことは自分でできてしまう。最近気になるのは、保育園で進級して、ちょっとしつけられ方が厳しくなったのか、行きがけにぐずることが多くなってきた気がすることだ。以前ほど自由放埓に過ごせないのが窮屈なのだろうか。でもなー、世の中ってそうなんだよなー、と思うし、でもうちの子はできるだけのびのび育ってほしいとも思う。休みの日は楽しくやろうや。

 もう思いついた順から書くけど、こないだ久しぶりにクラブに行った。そりゃあもう楽しかった。大きな音が出てるところでビール飲みながらふらふらと踊るのは楽しい、また行きたい。また行きたいのだけれど、そうもいかない身分だ。たまににしないとなー。

 独身の間や、子どもができる前にもっと行っておけばよかったと思う。思うんだけど、たぶんもう少ししたら「子どもが小さい間にやっておけばよかった」と思うようなことも、いま起きていたり見逃していたりするんだろう。何だろうな。

 いま、二人ともすっごくなついて、べたべたと甘えてくれる。あぐらをかいて座っていると、まあ上の子はスッと座ってくるのだけれど、上の子がいないときには下の子もえっちらおっちらとハイハイでやってきてよっこらせと座ってくる。わりとお父さんは好かれているようだ。こういうのもあっという間なんだろうな。

 そりゃ今日が自分は一番若くて、だからこそやりたいこともいろいろある(気がしている)。でもこんなに小さくてかわいいのも今のうちだよなーと思う。悩ましい。

 実家に帰省したら、両親が孫のためにビニールプールを用意していた。下の子はまだ入れないけれど、上の子は連日きゃっきゃとそのプールではしゃいでいた。その帰省中に母親が写真を持ってくるので何かと思えば、素っ裸の小さな兄弟がビニールプールに浸かっている。ちょうど今の娘たちくらいのころの、僕たち兄弟だった。そうかー、息子が30も過ぎて孫を連れて帰ってくるような歳になっても、小さかった頃は懐かしいのか。僕もちゃんと娘たちの写真を撮っておこう。ブログも残しておこう。

 これ紙にのこしておいたほうがいいんかな。家内に見られるのちょっと嫌だけど。

 とりあえず久しぶりにブログ書けたことにしておわり。