凡庸

週一くらいが目標です。

インターネットは教えてくれなかった走らせないミニ四駆の楽しみ方。

 「趣味がない趣味がない」と、思えば数十年来自分の趣味のなさに右往左往し続けてきたような気がする。楽器ができるわけでもなし、スポーツも嫌いで、これといって深められるような教養もない。ただ惰性的に商業エンターテインメントを消費するばかりで、これといった打ち込むべき趣味がないことにため息をついてばかりいた。

 趣味になるだろうかといろいろ試してみたけれど長続きしない。ちょっとやってみたら面白いのだけれど、なかなかモチベーションが維持できない。たぶん一人で没頭しよう(すべき)と思っているせいだと、モチベーションが保てない理由がいまなら少しわかる。しゃーねーじゃん、友達がいねーんだよ。

 

 とはいえ、

 とはいえ、だ。よく考えると、最近の僕はミニ四駆を組み立てたり、パソコン音楽クラブの新譜を楽しみにしてCDまで買っちゃったり、子どもを寝かせてから家内とFF8をああでもないこうでもないとやりつつ来週ぐらいにでるボーダーランズ3を早くやりたかったり、行きたい音楽イベントだっていくつもあったりする。

 刹那的にあちこち飛びついてはいるけれど、それなりに充実している僕の趣味ライフじゃん。

 対象への深い理解もなければ知識もないし取り組みも浅いけれど、それは仕方ない、一緒にやる人も使える時間もないんだからと半ば開き直っている。

 

 例えばミニ四駆も、調べてみると僕らが小学生の頃に近所のおもちゃ屋のコースを走らせていたような牧歌的な案配ではすっかりなくなって、やれモーターの育成だ、やれギアの駆動効率だ、やれシャーシの剛性だとかなりの知識と労力を必要とするような世界がインターネットの向こうに広がっていた。

 ネットの時代は恐ろしく、こんなものが簡単に目に入ってしまってすぐに「俺にはそこまでできない」としおしおのパーである。実際僕もしおしおのパーになって、買ってもどうせそこまでできないし、そもそもコースないし、なんとなく懐かしい程度でミニ四駆に手を出すのに気が引けていた。

 気が引けていたんだけれど、いつまでもミニ四駆が頭の片隅から離れず数週間が過ぎた。いい大人である。一台1,000円もしないミニ四駆にいつまでかかずらうのかと、思い切って買った。走らせるコースもないのに。ダメならそれでいいじゃん。

 

 えいやと買ってみて、組み立ててみて、楽しかった。そうそうこれこれと子どものころにも同じように楽しかったのも思い出した。この楽しさには確かな手ごたえみたいなのがあって、これでいいじゃんと思った。

 さて組み立ててみると愛着がわくもので(俺のトライダガーX…)、子どものころはうまくいかなかった塗装をやってみたくなる。何色で塗ろうか。一週間くらい、夜に子どもたちを寝かしつけようとトントンしながら頭の中は何度も様々な配色をイメージしていた。何色で塗ろうかと考えるだけで一週間楽しめた。

 さあいよいよ塗装をしてみると思いのほかうまくいき(俺のトライダガーX!)、今度はすこしパーツを足してみたり、走らせるわけではないけど無意味に電池を入れてタイヤが回る音を聞いたり、別売りのシールを買ってきて貼ったり、そうして出来た俺のトライダガーXを前から横から上からうっとりと眺めたり…。f:id:goodhei:20190829002931j:plain

 

 けっきょく今のところコースを走らせる予定もないので、自分のミニ四駆がどのくらいのスピードで走るのか全く分からない。ミニ四駆の楽しみ方の本質とはおおよそかけ離れているのだけれど、いいじゃん、僕は楽しいんだから。自分で組み立てて好みの色で塗り分けたトライダガーXを眺めたり、空回りする音を聞いてコースを駆け抜ける姿を想像したりするだけで、僕はミニ四駆を十分に堪能している。

 インターネットで調べてもこんな楽しみ方は載ってなかったぞ。(でもそういう楽しみ方を、たぶん小学生の頃の僕たちは知ってた気もする。)

 

 趣味をちゃんとやらなきゃと思ったり、他の人と比べて浅いなと思ったり、そうするとなかなか自分にとっての趣味を認めるのは難しい。まだこれじゃ趣味には足りないと思っていると、まさにいま確かに楽しんでいる自分に気付かない。

 でもまあ所詮趣味なんだし、いま刹那的に楽しかったり快感があればそれでいいじゃんね。ミニ四駆をコースで走らせたことなくたってマシンを眺めて楽しかったらそれでいい。時間の都合があわなくてリリパいけなくても車の中で聴いて軽くノれたらそれでいい。何週もやりこまなくたってディスプレイのなかのキャラクターと一緒にドキドキできたらそれでいい。DJがかけてる曲がなんなのかわかんなくても楽しくノれたらそれでいい。(…ですかね?)

 

 趣味。肩ひじ張らずに、ふらふらあちこちに浮気して、そこに自分の快楽があるかどうかちゃんと気付くのだけちゃんとやって、あとはいい加減な感じでやっていけたらいいと思ってます。知った風に偉そうなことだけ言わないように気を付けます。

これは大事にしまっておこうね。

 夏の日、プリキュアスタンプラリーを終えて長女と喫茶店に入り一つのチョコレートパフェを二人でつついていた。彼女がなぜ急にそんなことを言いだしたのかはわからないけれど「お父さん、日記ってなに?」と聞かれた。

 

 日記っていうのは、例えば今日○ちゃんとお父さんでプリキュアのスタンプラリーをしてこうやってパフェ食べてるでしょ?○ちゃん楽しかった?(たのしかった。)お父さんもすごく楽しいよ。

 それでねこんなに楽しいのに時間がたつと少しずつ忘れていっちゃって、そのうちに○ちゃんが大人になるころには、子どものころにこうやってお父さんと二人でプリキュアスタンプラリーやってパフェ食べたこととかも全然思い出せなくなっちゃうの。そういうのって残念だし、嫌じゃない?(いや!)

 だから、「今日は二人でプリキュアのスタンプラリーをして帰りにチョコレートパフェを食べました。楽しかったしおいしかったです」って書いておくと、大人になって忘れちゃっても、いつかそれを見返したときに思い出せるの。(ふーん)

 日記っていうのはそういうためのものなの。忘れたくない楽しかったことを、また思い出せるようにするものなんだよ。(しまっておくの?)そういうこと。

 お父さんも秘密で日記を書くことあるんだよ。(へー。)これお母さんには内緒だよ?あの人、すぐ他人の日記見たがるんだから。

 

「じゃあ、

 じゃあ、お父さん、今日のことも日記に書いておいてね。○ちゃんが大人になって思い出せるように」

 

 そう。たぶんこの子が大きくなったら今日のこの日のことはきっと忘れてしまう。僕だって細かなことは忘れてしまう(実際に数日経った現在では、他にもたくさんあった小さな話をほとんど忘れてしまった)。

 いつごろからだったか、僕はそういう「忘れてしまう」ことが寂しくって仕方なかった。それで個人的に、思い出したときに日記を書くようにしていたけれど、それでも忘れてしまう。

 子どもを育てるようになってから、そういう忘れてしまいたくない瞬間はすごく増えた。子どもの一日一日変化していく発言や言葉遣いや仕草を、その明日には当たり前になってしまう変化のその最初の驚きを、細かく覚えていたいと思うようになった。

 そうは言ってもその変化に驚いた次の瞬間には、彼女たちがどんなことを言って僕たちを驚かせたのか忘れてしまう。日記でもスマホのカメラでも間に合わない。(これに関しては、驚いた次の瞬間には新たな驚きが彼女たちからもたらされるから、ということもあるし)

 

 何の話だ。そう、僕は未来の僕や長女のために、この夏の一日がどんな一日だったか残しておきたいと思う。ここから先は本当に個人的な記録です。

 

 その日は次女が家内とともに昼寝をしたので、長女と僕はプリキュアのスタンプラリーに行くことにした。これは前日に家族で散歩がてら行ったローソンにスタンプと台紙が置いてあって、とりあえず1つ押してみたみたのだった(たしかキュアソレイユだったと思う)。残り3つスタンプを集めるとシールがもらえるらしい。

 日焼け止めを塗って、帽子をかぶってサングラスをかけて(長女も)、まずは最寄り駅にあるローソンを目指した。とにかく暑い日だったと思う。

 最寄り駅周辺には二軒ローソンがあって、それぞれ違うキャラクターのスタンプが置いてあることを確認して(たしかプルンスとキュアセレーネだったと思う)、それからスタンプだけでは悪いので紙パックのジュースを買ってスタンプを押させてもらった。

 すでにもう暑いので買ったジュースを早速木陰のベンチで飲んだ。「飲んだことあるもん」と長女が選んだのはグレープフルーツジュースで、「やっぱり飲めない」と言うかもしれないことを見越して僕はミックスオレを選んだ。(子どもと過ごすと、自然とこういう「やっぱりそっちがいい」「やっぱり食べきれない」を見越した行動をとるし、この日も半分くらい飲んで、グレープフルーツジュースとミックスオレをとりかえっこした)

 飲み干して、水路の飛び石を渡ってから自転車に乗った。僕が飲み干したパックを平べったく潰すと長女はおもしろがっていた。長女の分も平べったくしてやった。

 

 駅から少し離れた商店街にもローソンがあったことを覚えていたのでそちらへ向かう。意外と自分の中でローソンの位置が何か所もマッピングされていて驚く。

 自転車で走りながら二人で何か話をしたと思うのだけれど忘れてしまった。寂しい。

 タイルをはり直している商店街の道を、長女は何か彼女なりの法則で飛んで渡っていく。手をつないでいるので転ぶことはないけれど他人にぶつかると危ないのでやめさせた。

 あてにしていたローソンはスタンプがかぶってしまっていた(たしかプルンス)。その近くにもう一軒あることを思い出してもう少し歩く。こんな距離に何軒コンビニがあるんだ。

 めでたく4つめのスタンプ(たしか香具矢まどか)が揃ったので長女に耳打ちをし、彼女は「シールください」と店員さんにお願いしてシールをもらった。シールは大事にお父さんのカバンにしまわれた。グレープ味の果汁グミを買った。

 帰る前に休憩することにして、近くの喫茶店に寄った。ショーウィンドウには大きなパフェの食品サンプルが飾ってあった。二人で相談してチョコレートパフェを注文することにした。

 席に向かい合って座る。正面に小さな子が座っているその新鮮な視点に、長女は介助が要らなくなっていることに改めて驚く。大きくなったなあ。

 「なんでスプーンの先がフォークになってるの?」「なんでやと思う?」「うーん、果物をこうやって刺して食べれるから」「そうだろうね。じゃあなんでこんなにスプーン長いんだろうね」「わからん」「パフェは大きいでしょ、だから底のほうまですくえるように、パフェのスプーンは長いんだよ」「○ちゃんパフェ食べるの初めてやからわからんかった」そうか、意外と今までパフェを食べさせたことなかったのか。

 おいしいね、おいしいね、と言いながら最後まで二人で食べた。きっと僕一人だったら食べられただろうけど、途中から飽きてこんな満足感はなかっただろう。

 途中で「日記ってなに?」と聞かれた。

 店を出て、帰省の際のお土産を買った。長女は祖父母へのお土産ににキーホルダーを選んだ。喜んでくれるといいね。

 帰るころには夕方で、家内も次女も起きていた。そのままみんなで車の1カ月点検へ行った。

 

 そういう夏の日。

続Weblog for ”Magazine for City Boy (and City Girl)”

  こないだ書いたこの話の続きです。

goodhei.hatenadiary.jp

 

 そもそもなんでPOPEYEをせっせと読んでいるんだろうかというと、自分にとっての「いいもの」が何なのかわからないからそれを教えてもらっている、というところがあるんだと思う。なにがカッコいいのかわかんないんですよ。

 まあそもそも雑誌って「こういうのがイケてるんだよ」と読者の購買欲を刺激して消費を活性化させるためある種のカタログだし、実際、家内なんかもなんか服欲しいなあと言ってると思ったら雑誌を買ってきてああでもないこうでもないと検討している。だから僕がPOPEYEに求めているものは間違っちゃいない。

 僕らが雑誌に求めるのは「同じセンスを持っていて、たくさんの情報を紹介してくれる」雑誌だ。センスが先へ行かれ過ぎるとついていけない。そのかわり情報量はたくさん提供してほしい。取れる球をたくさん投げてほしい。

 

 ただPOPEYEを読んで「あ、コレ買おう」となったことがあるかと言われると疑問だ。ふーん、いい感じですねとは思うんだけど実際に店で探して買った覚えはない。どうせ東京にしか売ってないしね…。

 

 と、書いてみてふと思ったんだけど、なんでPOPEYEに載ってるいい感じのものは東京にしか売ってないんだろう。確かに東京とそれ以外の都市は全く別物だとしても、いいかげん21世紀なんだしそこまで東京にしか売っていないものばかりでもないだろう、というか地方にも売ってるものだってたくさんあるんだからそういうのも紹介しなよ、と思う。

 たぶんPOPEYEはちょっと都会で買える、ちょっとこじゃれたものには興味がないんじゃないか。そういうものにはPOPEYEが語るべき物語を添えてやることができないから。東京のここにしかなくて、しかもすぐに買えなくなっちゃうような物語のあるものがPOPEYE好みなのだ。あるいはむしろHanesのパックTシャツみたいな、どこでも気軽に買えちゃうチープなものなんだけど、そういうもののほうが物語を語りがいがあるんだろう。

 

 もういっこ、POPEYEは別にものを買わせるつもりがないなと思うのは、いちいち服とかがハイブランドだったりしてバカ高いのだ。購読者層としては20代前半、30代は越えないと思うんだけど、特集記事のモデルさんとかがグッチとかプラダとかのTシャツをバンバン着ていたりする。誰がグッチでポロシャツ買うんだよ、プラダの海パン履くんだよ。バブルか。

 POPEYEはカタログとして役に立ないなと強く思ったのは「夏、プールに身に着けていきたいもの」みたいな記事の中にガルウィングBMWが載っていたことだ。何が「¥19,660,000」だよ、バカじゃねーのか。(同じページにコンバースジャックパーセルが載っている、¥13,000)

 

 もういいんだ、僕たちはPOPEYEを読んで何か買おうとはあまり思っていない(特に地方在住者は)。僕らはPOPEYEを読んでcity boy的な審美眼を養って、身の回りのPOPEYE的なものを見つけて、そして物語を添えてやればいいのだ。

 POPEYEは商品を並べるだけじゃなくて、その商品が持っている物語やその商品から生まれる(であろう)物語を語ってくれる。

 

 あんまり買え買えって言わない雑誌。その雑誌の中で小宇宙を完結させている雑誌。物語があるなあ。

 ちなみにPOPEYEの最新号の特集は「メキシコ」です。行けるかよ(でもメキシコ料理は食べたくなる)。