凡庸

週一くらいが目標です。

のんびりと夢の中へ。

 世の中がもう少し落ち着いたら実家に帰省して自分の祖父母を見舞いに行きたいと思っていたのに、緊急事態宣言が解除されるほんの少し前に祖父が亡くなってしまった。

 もう少し長生きしてくれると思ったのに、本当にコロナウィルスは症状そのものだけでなく様々な忌々しい現象をもたらす。本当に忌々しい。

 

 ただ、それほど苦しまなかったようで、突然ではあったけど静かに息を引き取ったそうだった。体の丈夫さを誇りにして、庭でバットの素振りをしたり遠くへの散歩をしたり家のあちこちを掃除していたりした祖父が、帰省のたびに少しずつ色んなことが難しくなっていくのを見ているのが少し気の毒だった。だからその窮屈になってしまった体を抜け出して、思う存分野球をしたりビールを飲んだり先に亡くなった祖母と喧嘩したりすることにしたのだと思いたい。

 子どもが好きなやさしいおじいちゃんで、付き合って遊んでくれた記憶や風呂に入れてくれた記憶は父親との思い出よりも多いかもしれない。ひ孫である僕の娘たちも帰省のたびにかわいがってくれて、次女も大阪に帰ってからも「ひいじいちゃん」とお気に入りだった。

 昔から印象の変わらない人だとは思っていたけれど、この際に出てきた僕が赤ん坊のころの写真を見せてもらうと、やはり変わっていなくって少し笑った。

 長女のおかげで少し前に手紙を書くことができたのが、僕にとってのいくらかの慰めになった。まさしく感情のピタゴラ装置はまだ動いていた。病室の祖父の身の回りの持ち物のなかに僕らの手紙もあったそうだ。

 

 通夜に参加するために、金曜の昼頃に慌てて大阪を出た。それまでしばらく家族以外の大人と会わず、ショッピングモールはおろかコンビニにも行っていなかった我が家の姉妹は、出発の直前まで「ほんとうに今から行くの?」と半信半疑だった。

 緊急事態宣言中の高速道路は空いていて、サービスエリアも入店時に「いらっしゃいませ」と声を掛けられるほどガラガラだった。

 

 通夜も葬式も近親縁者のみのひっそりとしたものだった。祖父は小学校の先生で、年賀状もどっさり来るような人だったから本当はもっとお別れをしたい人たちもいたかもしれない。けれども家族にとってはこのくらいのほうが少しホッとするかもしれない。子どもたちもよく頑張ってくれたと思うし、疲れてしまっても家内が連れて抜け出してくれるのにあまり気兼ねがなかった。

 

 合間合間に母親から祖父のいろんな話も聞いた。母は結婚して義両親と同居をしながら僕たちを育てており、子どもながらに大変だなと思っていた(祖父母も父も少し偏屈なところがあった、まあそれは母もだけど)。でも母は、よくしてもらったしこっちが気を遣わせてしまった、と言っていた。そんなものか。

 それから、母がこの間に話した祖父のエピソードについて、僕に話したものと家内と二人の時に話したものとは違うエピソードで(あとから家内が聞いた話を教えてくれた)、一緒に暮らした血のつながらない義父についての思いもなかなか複雑だなと思った。

 

 翌日子どもたちは、よく頑張って来てくれた、ということで誕生日みたいなおもちゃをそれぞれ買ってもらっていた。

 

 大人になるまでどちらの祖父母も健在だったのだけれど、今では母方の祖母しかいなくなってしまった。初めに亡くなったのは母方の祖父でそのときは初めての身内の死にかなり動揺した。しかしなんとなく受け止めるのにも慣れてきたかもしれない。

 そうは言っても彼らは時折夢に出てきて、そのたびに僕はうれしい気持ちになったり悲しい気持ちになったり泣きじゃくったりする。そう、時々夢で会えるのだ。

感情がピタゴラスイッチのように転がっていった。

 なんの話をするにしても「今般のコロナウィルス流行の影響で……」と前置きをしなくてはいけないのが辛気臭いけれど、いま現在の生活にまつわるアレコレについては切って離せないので仕方ない。

 身の回りでコロナウィルスに感染して大変な目に遭っている人がいないので幽霊やお化けの類を怖がっているのではないか、もしかして壮大な狂言ではないかと思いたくもなるけれど、実際にり患して亡くなった方や入院されている方もいるということなので滅多なことを言うもんじゃない。

 

 で、今般のコロナウィルス流行の影響で僕が少し気にかかっていることのひとつは実家の祖父母のことだ。

 母方の祖母と父方の祖父がまだ存命で現在施設にお世話になっているのだけれど、今般のコロナウィルスの影響で実家の父母も施設へ行って祖父母と面会ができていない状態だそうな。

 まあ老人施設は免疫が弱っている人ばかりだからそうやってしっかりブロックしてくれているのは親族として安心できる。だけれど子どもたちがすくすく育っていくように、年寄りが小さくなっていくスピードもまた早い(と実家に帰省するたびに思う)。だから少しでも会って元気なうちに話をしたりしたい。でもその時間をコロナウィルスが奪っていく(そういう厄介な病気だ)。

 祖父は体調を崩しつつも新聞を読んだり周囲と話をしたりして認知はハッキリしている。祖母はそりゃ昔と比べれば痩せはしたものの割合健康で、だけれどやりとりがあやふやなことが増えてきたそうだ。

 家族としては(特に僕の母は)会えない間に祖父母の老化が進んでしまいやしないかと心配なのだ。

 

 遠方の孫である僕としても年度末あたりに一度、あわよくばGWにもう一度会いに行けたらと思っていた。しかし今般のコロナウィルスの影響で施設への面会はもちろん遠方への移動もままならぬ。

 家族に会えなくて寂しかったり退屈だったりしている祖父母を思うと何となくこちらも寂しい気持ちになるもので、何かいい案はないかと思っていた。

 

 遠い祖父母も気になるけれど、我が家は我が家で大変だ。

 子どもたちは保育園が休みになってしまい、ショッピングモールも大きな公園も行けないのでついつい家でテレビに子守を任せてしまう時間が増えた。

 平時なら保育園でお絵かきや工作をしてその創造力を大いに伸ばしてもらっているはずだけれど、想像力に乏しい親としてはどんなふうに取り組ませてやればいいものかと頭を悩ませている。

 

 祖父母と娘の問題を両方をまとめて解決してしまおうと、孫は、父は、考えた。

 長女に手紙を書いてもらって祖父母(長女にとってはひいじいちゃんとひいばあちゃん)に出そうと考えた。そうすれば長女にとっては字や絵の練習、そして手紙というイベントになるし、祖父母にとってもひ孫からの手紙は気持ちの慰みにもなるだろう。

 これは妙案である。

 

 そこで長女に「お願い」をした。家族に会えずに寂しい思いをしているひいじいちゃんとひいばあちゃんに手紙を書いてやってくれ。これは歯を磨きなさいとか手を洗いなさいとかの「しなさい」ではなく、それをやってくれるとお父さんが嬉しい気持ちになる「お願い」であるから無理にとは言えない。だけれども、どうかみんなのために手紙を書いてやってくれないか、と。

 長女は快く引き受けてくれた(ついでにおじいちゃんとおばあちゃんのぶんもかくね)。……のだけれど、案外筆が乗らないようで三通の手紙を書き終えたのはお願いしてから一週間近く経ってからになった。

 曾祖父母宛の手紙の文面はおおまかに僕が考えた。ちょっとズルな気もするけどまだ保育園児なんだしちゃんと字が書けるだけで十分だろう、句点だって使いこなすし。それに空いたスペースに長女に好きに絵を描いてもらった(かわいい女の子の絵)のでオーケーだ。

 僕も祖父母に手紙を書いた。一筆箋に簡単に書いた。それから長女と一緒に折り紙でハートと星を折って入れた。

 三通まとめて実家に送り、祖父母の分は両親にお願いして直接配達してもらうことにした。

 大変な時期だろうに郵便配達員さんは無事に長女の手紙を届けてくれ、自分たちにも手紙を書いてくれた孫に両親は喜んでいた。よかった。

 

 さて、その手紙を母は転送するのではなく祖父母のそれぞれの施設に直接持っていたようだった。

 そして祖母(母にとっての実母、長女にとっての曾祖母。ややこしい)の施設に手紙を持って行くと、施設の栄養士さんの好意で中庭越しに祖母の顔を見せてくれたうえにスタッフさんの携帯を借りて電話で話までさせてくれたそうだ。

 そのことについて母は

「私のこともちゃんと○○だって覚えてたし、痩せてなかったし発語もしっかりしてた。

嬉しくって涙が出た。ぜーんぶ○ちゃんのおかげ!ありがとう!!」

 とずいぶん感動した長女への感謝の連絡をよこしてきた。僕の差し金なんすけどね、全然いいけど。

 自分の母親に娘である自分を認識してもらって「嬉しくって涙が出た」のはきっと本当だ。母も祖母に会えない間に認知の能力がぐっと弱くなってしまって自分のことを忘れてしまったらと相当不安だったのだと思う。

 

 さて、母が感激してくれたことは僕にとっても嬉しかったのだけれど、それはそれとして何だかおもしろいことが起こっているなとも思った。

 うまく言えないが、ピタゴラスイッチのように意外なほうへ感情が転がって連鎖していった気がする。

 初めの感情は僕の「まとめて解決してしまおう」だ。それが長女へのお願いとなって、長女のよくわからないけどお父さんの頼みなら聞いてやるかという気持ちへと転がり、実家の両親に届いて、そこを通って祖父母へと届いて喜んでもらう。そういう転がり方をすると思っていた。ここまでで僕→祖父母へという矢印が色んな感情を経由したり寄り道したりしている。

 しかしそれで終わらず、意外な形で祖母から母へと気持ちが跳ね返ってきた。結果母は涙が出るほどに感激している。そして感謝の気持ちとなって長女のもとへ返ってきて「ピタゴラスイッチ」の旗が上がる。

 最初はビリヤードの球が次々に別の球を弾いていくようなイメージがあった。しかし今回のそれはそういう直線的な動きじゃないよなと思う。やはりピタゴラスイッチのように曲がったり上がったり下がったり球の色が変わったり大きくなったりするようなイメージがある。

 まさに紆余曲折だよなと思った。

 

 長女のもとへ返ってきて旗が上がると書いたけれど、その前に僕の気持ちが挟まるかもしれない。母からのお礼の連絡があり「涙が出た」というその文言を読み、涙ぐまんばかりにしている母の姿が浮かんだ。その時に僕もずいぶんと良い孝行ができたなあという嬉しさと長女に対する深い感謝が湧いた。初めは単なる僕の思いつきから始まった行為が紆余曲折して色んな気持ちがないまぜになった大きな満足となったのだ。

 

 今般のコロナウィルスの影響がなければわざわざ祖父母に手紙を書かせようなんて思わなかったかもしれないし、母の深い感激に間接的に立ち会うこともなかっただろう。こういうのも何がどう影響するかわからんなという話に入るかしらん。まあ無事に凡庸な日常へと戻って祖父母に直接会えるに越したことはないんだけど。

 

 そういうわけで、このブログはロボ家ちょっといい話をしたいのと、感情の連鎖は思わぬ展開を見せることがありそれはピタゴラスイッチのようだ、ということを言いたかったブログでした。

凡庸の凡庸(2020.05.04)

 夜中の2時半ごろ、鼻が詰まって眠れなくなってしまったと言って長女が何度も寝室とリビングを出入りして鼻をかんでいた。お茶を飲ませたりヴェボラップを塗ってやったりしてもう一度寝かせた。

 我が家はみんな何となくカラ咳が続いていたり鼻が詰まったりお腹を悪くしたりしている。コロナコロナのこの時勢で不安なのと周囲に申し訳ないのとで困るので、早くみんなスッキリしたいものである。

 

 そんなわけで僕と長女は夜の変な時間に少し起きてしまったせいで今朝はグースカ寝てしまい、珍しいことに我が家の一番早起きは次女であった(記録9:00)。次女の起きた気配で僕が目を覚まし、次女が僕にオムツを交換されている気配で長女が起きてきた。三人でジャムトーストを食べて朝ご飯とした。別室で寝ていた家内は……いつまで寝ていたんだっけ。

 

 この外出自粛期間中は学研のニューブロックに本当にお世話になっていて、みんなでおうちを作ったり乗り物を作ったりロボットを作ったり(ブロックを取り合って姉妹喧嘩したり)して毎日のように遊んでいる。

 今日は長女から「コンテストをしよう」と挑まれた。お題は何かと聞くと、長女はあまり考えずに「めちゃくちゃなものを作ろう」と言った。

 ふむ、よかろう。大人のめちゃくちゃさを見せてやろう。ということで審査員を家内に依頼しコンテストにとりかかった。

 

 僕は手当たり次第にブロックを手に取りつつ、それをなるべく無作為にはめ合わせ、かつ巨大で自立する形へ「めちゃくちゃ」を目指して作っていく。

 一方長女も適当にくっつけているようで、このあたりはうまく説明できないのだけど、なんというか、大人の僕にとっては意識の外側、のような組み合わせ方、差し込み方、そしてまとめ上げ方をしていた。

 僕の作った「めちゃくちゃなもの」は「めちゃくちゃ」を意図して作った「めちゃくちゃ」であるが、長女の「めちゃくちゃなもの」は幼児の天真爛漫さや荒唐無稽さが形になった天衣無縫の「めちゃくちゃなもの」である。

 もちろん長女とて「めちゃくちゃ」を意図してはいるのだけれど、一目見てわかるほどの「めちゃくちゃ」の純度の高さに、その境地に至れなくなってしまった大人の僕は自分の「めちゃくちゃなもの」を作りながら半ば負けを確信していた。

 

 子どもの制作した絵や工作が大人の胸を打つのは、その巧拙のためではなく、技術や知識を身に着けたがゆえに二度と再現することのできない、大人がすっかり通り過ぎてしまったその無邪気さや荒々しさや奔放さのせいだ。

 こういうものの得難さがなんだか切なくって僕たちは長女が描いた絵をなるべくとっておくようにしている。時にはきちんとした画用紙に何か描いてもらい、額装して家に飾ったりもしている。

 

 さて、ブロックコンテストにはいつの間にか次女も参加しており、彼女はブロックをはめ合わせることすらせず整然と縦にブロックを積み上げていた。「めちゃくちゃなもの」というお題に対して(知ってか知らずか)ただ整然とブロックを積み上げるなんて、さすが次女、パンクだな…と思って横目で見ていた。

 いよいよ高く積みあがってきたところで、彼女はそれをバーンと唐突に崩した。

 審査員の家内が見に来たとき、すでに次女の作品は跡形もなく瓦礫となっていて、「整然と積みあげたものをバーンと崩した」というコンセプトのような、概念のようなものものしか残っておらず、「めちゃくちゃさ」というフィールドにおいて我々は圧倒的な違いを見せつけられたのだった。現代パフォーマンスアートかよ。

 家内による審査の結果「めちゃくちゃコンテスト」の優勝は次女、準優勝は長女だった。 

 

(この日他にも次女は、僕と長女が協力して作った積み木のお城をせっかくだから長女も一緒に写真を撮ろうとしたところに、自分も一緒に写してもらおうと入ってきて、さあハイチーズの瞬間によろけてお城を粉砕した。カメラはピースして顔を作っている長女と、前につんのめる次女と、吹っ飛ばされる積み木のお城とを捉えていた)

 

 お昼ご飯はまたたこ焼きパーティーをした。タコとモチとウィンナーを入れた。僕たちの手際が良くなったためか、以前よりもみんなよく食べた気がする。