凡庸

週一くらいが目標です。

ザッピングしたところで映るのは僕の顔か、ときどき君の顔。

 最近、「自分は一人で遊ぶのが得意である」という傲慢を打ち砕かれている。
 実際今日なんかもそうで、家内は女子会とやらでいない。これはチャンスと一人で遊ぼうと思ったのだけれども、今のところ何もしていない。夕食だって、豚肉と玉ねぎを生姜焼きのタレで炒め、インスタントの味噌汁と冷凍しておいた肉じゃがをおかずに白飯を食べただけで、なにも「遊び」を感じさせるものはない。それどころか「肉炒めただけじゃ栄養偏るな」と玉ねぎを入れたり肉じゃがを食べたりする始末である。
 もともと、酒が弱く、缶ビールの一本でも飲めば、眠る前にすでに二日酔いになっており、酔い特有の浮遊感や高揚感を味わおうにも、場の雰囲気、みたいなものの力を借りなければ、一人で黙々と飲んだところでどんどん具合が悪くなり、気持ちも暗澹たるもの、そこに「遊び」の入りこむ余地はなく、ただ辛いだけという有様だ。
 ならば、と普段なら家内に怖い顔をされて食べられないアイスを先ほどひとつ食べた。なんというささやかな「遊び」か。


 一人が得意だと思い込んでいたのは独身時代であったのだろう。有り余るほどに一人の時間がぬんと横たわっていて、そのうちの一部を切り取って何かこそこそと遊んでいたにすぎず、ちょっとした自分の時間を一人で有意義に使おうにも、何をしようか考えているうちに時間はなくなる、選択肢はせばまる、結局テレビをザッピングして過ぎてしまう。


 先日も家内と話していたのだけれども、僕には友達が少ない。もちろん、子どものころからそれなりに人付き合いもし、学級委員などもやっていたようなタイプである。もともと友達がいなかったわけではない。
 ところが現在、こうして一人きりにされたときに気軽に声をかける友人はおらず、そういえば最近友達と一緒に遊んだのは、家内と共通の友人たち、それも女性ばかりで、やはり僕の友達であると堂々とカウントしづらいものがある。
 こちらから声をかけられぬわけでもないのだけれど、どうにも億劫で、いや、どうせ何かしら忙しかろうて断られるに違いなく、断られるのに声を賭けるのが億劫なのだ。やはり友達がいない。


 普段なら、家内が一番の遊び相手である。これはいい。誘わずとも家におり、気負わずとも遊べる。ふたりで並んで本を読むなり携帯のゲームをするなり、これも遊びであり、録画しておいたドラマを観るのも遊び、なんならふたりで向かい合って何の変哲もない夕食をとるのだって遊びといえなくもない。
 これは大変に楽である。ずぶずぶに甘んじてしまっているのだ。家内のほうが友人は多いけれど、ある程度において僕と同じで、楽だし遊び相手にも困らないと言っていた。


 先日、そういう話になったのだ。
 一体世の20代男性は、休日何をして過ごしているのだろうか。友人が多いのか。といってもいい歳した男性同士で遊ぶと言っても、一緒に飲みに行くのが関の山、映画や買い物をしている大人の男二人連れは滅多に見掛けない。
 じゃあ女性と、というのはナシにしてほしい。家内に目を光らせられる前に、そんな甲斐性も勇気も持ち合わせていない。
 一体、みんな何をしているのだろう。友達が欲しい。