凡庸

週一くらいが目標です。

この手紙を読んだら、いつか次の人へ伝えてほしい。

 しばらくブログをほったらかしにしている間に、家内のお腹に子どもができた。誕生は6月の終わりごろとのこと、夏と一緒に子どもがやってくる。結婚して、新婚旅行へ行き、子どもが産まれる。すこぶる順調な家庭生活である。
 家内はいま、妊娠初期のつわりが辛いらしく、日になんどもえづいている。食事は、まあなんとかとっているのでそれだけは安心しているが、まわりをうろうろと心配するくらいしかできず、なんとも不甲斐ない。洗いものをしたり、風呂掃除したりしている。
 それにしても、妊婦、ときくと腹の張ったゆったりした服を着た女性を想像し、街や電車で見かける「赤ちゃんがいます」マーク、あんなものなくてもお腹の大きな女性が妊婦なんだからいらないだろうくらいに思っていた。もちろん、お腹が大きくなる前の段階の妊娠期間があるということも知っていたが、でもお腹が大きくないなら別に普段と変わらないだろうくらいに思っていた自分は大馬鹿野郎である。
 寧ろ、お腹が出る前の妊娠初期段階のほうが女性はしんどくて、おまけに流産の危険も高くて余っ程気を遣われなくてはいけない。けれども世の男性は、せいぜい以前の僕程度の認識の人達ばかりなんだろうと思う。これはいけない。是非とも教育現場で何度も何度も繰り返すべきだ、だって命は尊いし、女性は大変なんだから。自分に子どもが出来るまで知らなかった、というより当事者意識が弱すぎて恥ずかしい限りである。
 でも男はそういう辛さがわからないから、家内の職場の上司の話であるが、きっと間近で見ただろうにも関わらず、つわりの辛さに全く理解がないらしい。そりゃあ自分がしんどいのはわかるけれども、大事なのは人じゃないか、うちの家内を大事に扱ってやってくれ、と欲目ながら強く思う。


 親になる不安がある。子育て自体はなんとかなるだろう。きちんと栄養さえ与えておけば、満足に育つと思っている。人間ひとりが成長するのに、僕がどうこうしたって、彼または彼女は自分で育つのだ。それに人並みの援助をしつつ、彼女または彼がどんな風にそだつのか、面白がって見物していたい。
 では、僕の抱いている不安は何かというと、自分の死である。
 死ぬのが怖い。子どもが産まれる、ということは、自分の死ぬランキングが確実にひとつ上がるということだ。昨年の春に祖父を亡くした時にも「ああ、これで自分の順番にひとりぶん近づいたな」と怖くなったのを覚えている。先の世代が亡くなるか、新しい世代が産まれるか、これがどうしても、僕に死を予感させる。
 NHK教育テレビの「2355」という番組で、ボルボックスという微生物の映像を見た。基本的に無性生殖で増えるボルボックスは、生れながらにして体内に次世代(つまり自分の子ども)を抱いている。映像を眺めていたら、ある一定まで成長したボルボックスは、内側からめくれ上がって内側の次世代を解放した、とともに親世代はそのまま空っぽになってどこかへ漂っていった。
 ボルボックスにとっては、次世代を生み出すことは即ち自分の死を意味している。人間だって途中に育成期間は挟むけれど、そんなに変わりはしない。僕は家内のお腹に命を宿した瞬間、やっぱりワンランクだけ死に近づいた。ちなみに、新たに生まれたボルボックスはすでに次世代(初めのボルボックスから数えると、孫たち)を宿している。生まれた瞬間から、次の命と、自分の死を抱えている。


 そういう不安、怖さはある。でもやっぱり、家内と一緒に検査薬で子どもができたことを確認した瞬間、僕はなんというか、「自分がこの世に生まれた意味を果たした」というか、「自分も大きな生命の流れに参加することができた」ような、なにか大きな役割を果たしたような気がしたのだ。自分がちゃんと生きているという気がしたのだ。ほんとうにうれしかった。数日後、家内が産院で撮ってもらってきたエコー写真には、黒い粒が写っているだけであった。それでも見た瞬間に思わず「これがうちの子?」と訊いて、そうだよ、と言われてみればなんだか、黒い粒がとてもかわいく見えたのだった、馬鹿馬鹿しいけれども本当だ。


 家内はもうすでに苦しみながら子育てを始めている。可哀そうだけれども羨ましくもある。是非僕も参加したいのであるが、それは無理な話なので、仕方がないから家内を大切にすることにしよう。それと思い付いたらちゃんとブログも書こう。