凡庸

週一くらいが目標です。

非日常を期待した罪悪感でどもる体。

 こないだ友人と話していて、ふと自分のいま置かれている状況がなんか、正しい、みたいなことを言った。たしか言われたんじゃなくて自分で言ったような気がする。

 30過ぎて、結婚してて、夫婦で多くはないけれどそれなりに収入は安定していて、二人の子どもがいて、持ち家に住んでいる。なんかフツー(凡庸)だ。これを自分で「正しい」とか言っちゃうのは完全に傲慢だと思うけれど、酔っぱらった席の言葉として勘弁してほしい、どうか。

 このフツーさに、例えばゼロからもう一度たどり着け、と言われたらたぶん無理だ。いろんな人に生かされていまここにいるので、もう一度お願いします、と言ったところで愛想をつかされるだろう。ありがたやありがたや。

 そういうありがたやありがたや、を前提として、なんかこう、フツーじゃなさにも憧れる。いや、そういうと大げさだな。今日とちょっと違う明日が来るかも、みたいな予感の中で生きていたい、みたいな?そういう感じがある。別に明日が違う日じゃなくてもいい。来週のこの日はちょっと非日常だぞ、という期待とか予定があってほしい?いや、そういうおもしろイベントも確かに欲しいけど、もうちょっとこう自分とか環境がじわっと変わっていくような?そういうのがほしい。しかも今のフツーさは守ったまま。

 わがままだよな、と思う。家内にはこんなにもよくしてもらって、楽しく生活を共にしてくれていて、子どもたちの日々の成長は楽しいしかわいい。これ以上新たな何を望むのか、とそういうのは重々承知だ。(でも承知してないからこんなこと言ってるのか?)

 現状維持以上のものを望むのは、現状を共にしている人たちに悪い気がする。変化を求めてしまうのは、身の回りの人たちに「君たちに満足していないんだよ」って言っていることのような気がして。なんか、思うだけでもちょっと罪悪感がある。

 なんなんでしょうね。

 罪悪感を自覚しながらこういうことを言葉にして書いている。かいちゃだめな痒い所をかいている。そういう背徳感を、びくびくしつつも楽しんでいるので、これは不良的な行為のブログです。

 

 こういう内容も始めから書こうと思って書いているわけじゃなくて、書いているうちになんだかこういうことになった。しゃべっているときもそうで、特にお酒でも飲んでいるときに顕著なのだけれど、でも普段だってある程度そうなのだけれど、口に出してしまったその後に自分が何を考えていたのかわかることがある。

 これって不思議だよなーと思っていたら、そういうことについて書かれた本があった。最近読んで面白かったのでここで紹介しておきます。

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

  リンクを踏んでもらえばどういう本なのかわかるかと思いますが、吃音の研究を通して、しゃべる(体を動かす)ってどういうことなの?ほんとに全部自分の思い通りにやってるの?ということを考える本です。

 会話において何か言葉を発する、そのためには身体的にかなり複雑なことをやってのけているというのはちょっと想像すればわかることだ。でもその複雑な動きは意識されることなく、フツーの人は難なく自然にやってのけている。つまり身体がセミオートで身体を動かすことで、我々はしゃべっているというのだ。

 すごくないですか?僕たちはみんなセミオート(あるいは完全にオートマティック)にしゃべってるんですよ。

 そして、しゃべることがフツーにはできない人=吃音の人たちは、しゃべるという行為をセミオートに任せることができないので、フツーに話せるように色んな工夫をするそうです。そしてその工夫の中でさらに「自分の話したかったこととは」みたいな葛藤が生まれる、というような話が書いてあります。

 詳しいところの話はご興味があれば読んでみてください。読んだら感想の話とかしましょう。

 

 だから何、って大したことも言えないんだけど、たぶん僕たちの頭で考えられることには限界がある。時々はこうして書いてみたり人に話してみたりして、体のしたいままに任せてあげるのはとても大事なことなんだと思う。

 みんな、ブログ書きましょうよ。なんとなく生活しているところとか、考えているところとか読みたいです。