凡庸

週一くらいが目標です。

我々は「装う」ためのコストを見誤っているのかもしれない。

 ウルフルズの名曲「バンザイ」の歌詞の中に「ダサいかっこはしたくない 歳は取らないように」というフレーズがある。

 わかる。最近になって特に思うのは、年甲斐もなく流行りの格好するのは恥ずかしいと思いがちだけれど、本当は逆で、歳を重ねてきたからこそ適度に流行は取り入れていかないとどんどんダサくなって歳をとるスピードも加速していく。

 「シンプルなものは古びない」とか言ってたノームコアだって、多分いまなら「無課金」とか「パジャマ」とか言われるんだろう。まあ多少譲るとして白いTシャツにデニム、みたいなシンプルな格好をしてもいいけれど、3,4年前の白いTシャツとデニムを脱いで、新しくTシャツとデニムを買ってこなくてはいけない。微妙にシルエットとかが変わっていたりしておなじ白いTシャツとデニムに見えても、多分数年前のものと今年最新のものとではイケてる感とかが違うのだ。多分。

 そんなことにも気づかずに、一緒でしょ無駄無駄、とか言うようになってしまうと、みるみるダサい格好になり加齢は加速する。

 

 そんなようなことを少し前から思っていて、同じようなことをブログにも書いたような気がする。

 思うのは易いのだけれど、行うのは難く、それでもそれなりに今風であろうと、やはり先日都会に出かけて服を見繕ってきた。

 まあせっかく都会で買い物をするのだしシュッとしたナウいやつを、そうだな、ここは豪儀に2、3万円ほど払ってほいほいと買ってやれば僕もたちまちに流行りらしくなるだろう。そういうつもりで都会に出かけた。

 

 結局その日買ったのは、本とプラモデルと塗装下地のスプレーだった。シュッとしたナウい服は買えなかった。

 半日都会をあちこち歩いて、たくさんの服屋を覗いた。ちょっといいな、と思う服もあった。そのなかに値札を見て目ん玉が飛び出るような服はなかった。それでも都会で服を買うこともなく帰ってきた。自分には自分が着るべき一着を選べなかった。それを着ている自分が、かっこいいのか、今らしいのか、まったく想像できなかった。想像ができない服にお金をポンと払えなかった。

 

 プラモデルを買って帰りながら、僕は「装う」ということについて自分はコストを見誤っていたのではないかと考えたのだった。

 もしかすると、例えば2万円の服を一着バシッと買ってバシッとかっこよく着るためには、それ以外に10着くらい2万円の服をヘナヘナと買って帰って着てみてもなんか違うとヘナヘナとなる必要があり、それを経てようやく初めて2万円の服をバシッと一着かっこよく着れるのかもしれない。センスのいい人は10着も失敗する必要ないのかもしれないけれど、そのセンスを育てるのだってたくさん挑戦して失敗もしただろう。

 それを、この僕はといえば、豪儀ぶって、どれ2,3万円も出せばよろしい服が買えるのじゃろなどと思い込んでいた。しかし普段大してアンテナを張っていない素人が、急にふらっと都会にやってきてあまたに点在する服屋のさらに膨大な衣類群の中から、ナウでかつ自分の(曖昧な)感性や(ダサい)美意識にかなう一着を一本釣りできようはずもない。

 それこそまさに「おしゃれは一日にしてならず」(クソダサい)である。日ごろから都会に足を運んで、服屋を覗いたり道行くナウな若人たちの装いを観察して、そしてユニクロなら3着くらい買えそうな値段帯の服でも失敗を恐れずにどんどん買い、さらに家に帰って着てみて「なんか違うかも」と思いつつも試行錯誤して着こなす。そうやってようやくナウさと自分の感性と財布事情のバランスが見えてきて、気に入る一着がバシッと買えるのだろう。

 つまり、装うには日ごろから服屋を覗いて時間をかけ、毎シーズンのように色んな服を買ってみて金をかけるべきで、そうしてようやく自分に見合った装いが身に着くということだ。

 「自分は普段時間がなくてとりあえず適当に済ましているけれど、別に2,3万の服をホイッと買えないわけでもなし、その気になれば洒落た格好ができるんだぜ」とか言ってるやつ(自分)は装うための相応のコストを払えないからそういう格好をしているわけであって、やはりそのへんをナメていると、ダサいかっこでどんどん歳を取っていってしまうのだろう。悲しい。

 

 おまけに自分の格好を装うにあたっては客観的に見られないのも難しい。装ってみた状態を良し見ようと悪しと見ようと、とにかく自意識が邪魔をする。

 自分ではいいと思っていても傍から見ればクソダサかったり(そこで「自分の好きな格好だからいいのだ」と開き直れればいいけれど、歳をとらないよう流行を気にするのであれば、やっぱりマジョリティたちの感性にウケたい。自分の好きなアホな格好は、それはそれで別の話とする)、逆にそれを着ておけば間違いはないはずなのに「もうちょっとトガりてぇ…」と棚に戻してしまったりする。

 そういう「自らを」装うという点も、装いに鍛練が必要とされる根拠だろう。装うことについて鍛練をし、自意識のバランスを見出すためにたくさん失敗をして学ばなくてはいけない。これが本やプラモデルなら服に比べて自意識の入る余地はほぼないので簡単にポンと買えてしまう。

 

 やっぱり装うことは難しい。誰か服をポンと選んでくれたらいいのに(そうしたら「もうちょっと攻めたいんですよね…」とか言うから)