凡庸

週一くらいが目標です。

水切れの悪いワイパーで視界を拭うのとふと晴れ間が覗くのを待つのと。

 ときどきやけに気分が塞ぐことがあって、ここ最近がそれだった。それなりに家事とかもやって生活をするんだけどなんか感じ悪くて、家内にも申し訳ないと思いつつニヤニヤする気にもなれずに反抗期みたいに目を合わせずにおやすみって言っていたりしていた。

 

 家内が、結婚して神戸に引っ越した友達に会うという話になり、ついでだからと僕も娘も一緒に3人で神戸に行った。また神戸だ。家内が友達と会っている間に僕たちはアンパンミュージアムに行くことにした。録画しているアンパンマンの途中で、アンパンマンミュージアムのCMが流れるたびに「またいきたいねー」とうるさいので連れて行ってやりたいと思い、本当はクリスマスの少し前に行ける予定があったのだけれど家内も娘も体調を崩してしまってお流れになっていたのだ。

 自分が妙に不機嫌なのも自覚していたし、それをなんとなく家内が察知しているのもわかっていた。前日の晩、ガソリンを入れに出かけると告げて出ていこうとすると、後ろから「なんか元気ないし外でコーヒーでも飲んで来たら?」と声を掛けられた。うん、とコーヒーを飲んでくるのか飲んでこないのだか自分でもよくわからない返事をして出かけた。少し遠回りして帰ったけどコーヒーは飲んでこなかった。帰ったら娘は家内にお風呂に入れてもらっていた。

 

 寝つきが悪かったうえによく眠れなかったせいで翌朝は思ったより寝坊をしてしまった。家内に娘の支度をしてもらった。朝から雨が降っていた。前に神戸に行った時ほど高速道路は混まなくてよかった。ワイパーのゴムが悪いせいで、拭っても拭ってもフロントガラスの視界が悪かった。

 

 到着した時間と家内の待ち合わせの時間がだいたい同じだったので、家内はそのまま待ち合わせ場所へ、僕らは入場ゲートへ向かった。娘が「おかあさんもー」とごねるかと思いきや全くそんなことはなかった。意気揚々と順番待ちの列に並んだ。大人一枚、子ども一枚、それぞれ1500円ずつ。アンパンマン顔のシリコンコースターを2つと、娘には首から下げられるアンパンマンの小さなでんでん太鼓をもらった。コースターやチケットは娘が背負っているリュックサック(中には替えのオムツやハンカチや食事の際のエプロンが入っている)に入れて、でんでん太鼓を首から下げてやった。

 かねてよりご待望のアンパンマンミュージアムとあって、娘はえへへへへと笑いながらぴょんぴょんとはねて喜んでいた。リュックと上着を預かってやった。あっちをみようこっちもみよう、と娘は僕の手を引きながら混雑する館内のマスコットを見てまわったり、アンパンマン号の列に並んだり、ちょっとしたすべり台を滑ってみたりと満喫してご機嫌だった。たのしいねぇ、たのしいねぇと何度も言っていた。

 時間をおいて色んなキャラクターが館内にグリーティングに来てくれた。「お写真撮られるおうちの方は一歩おさがりくださーい」とスタッフのお姉さんに制止される大人たちの間をもぞもぞと潜り抜けて、娘も色んなキャラクターに握手やハイタッチをしてもらっていた、ドキンちゃんにはクルンクルンの天然パーマを褒めてもらっていたみたいだった。そうやって親の手を抜けて自分で他の子に混じってキャラクターに触りに行く様子が、なんだか大きくなったなと感じた。ただそうやって調子に乗った娘はこの日2回ほど僕の姿を見失い、迷子になりそうになっていた。

 

 お昼ご飯も少し並んだだけで館内のレストランで食べられた。親バカだとは思いつつ、周りでそわそわしたりして親たちの手を煩わせている子どもたちと比べて、うちの娘は落ち着いて座って一生懸命に食べていて偉いなと思う。「よく食べてえらいね」「おいしいね」と声を掛けてやると顔をくしゃくしゃにして笑顔をつくる。その顔をスマホで撮って家内と実家の母に送った。

 なんだかそういう顔を見ていて、娘の午前中のはしゃぎようを思い出して、ふと自分の気が多少塞いでいようが大したことじゃないという気分になった。

 

 ご飯を食べてミュージアムに再入場した。お昼からももう一度のんびりと館内を見てまわったり、ちょっとしたショーを見たり(場所取りして待っていなかったので後ろのほうから肩車をして見せていたのだけれど、さすがに13キロを5分も10分も続けて肩車をするのは背骨に悪かった気がする)しているうちに家内と約束していた時間になった。家内の友達というのも僕も娘も何度か会っている人だったので、すこしみんなでお茶をした。プリンを食べさせてやるとか何とか言われていたはずなのに、座れた店に適当なデザートがなかったせいで食いっぱぐれた娘は「ぷりん…ぷりん…」と小さな声で恨みっぽく訴えていた。

 

 帰りの車では娘はすぐに寝た。僕たちは行きの車内より少し会話が弾んだような気がする。帰り道も相変わらずの雨だった。覚えているうちに早いところワイパーのゴムを替えたい。

凡庸の凡庸2

 ようやく年賀状ができた。ポストに投函するのは大晦日だ。我ながら呆れるけれどもこれで30年生きてきたのだ、三つ子の魂とはいうが30じゃあ後に引けない。来年で30になる、僕も家内も。

 

 先日1万円くらい出してセーターを買った。いい歳をしてユニクロしか服を売る店をしらないのもよくないと思って流行りのセーターを買った。着心地や暖かさはとくに変わりはないけれど、何しろ「流行りのものを着ている」という安心感がいい。下手したら学生時代の服が未だにワードローブに入っている(しかもユニクロ)ほどなので、そういう服を着ていると何だか自分がダサい気がして落ち着かない。

 いや、落ち着かなくなってきた。ウルフルズが歌っていたように「ダサいカッコはしたくない 歳はとらないように」という気分なのかもしれない。若いころは流行りを気にするほうがカッコ悪いと思って、あえて裾がボロボロになったジーンズに雪駄を履いて、その上に変な帽子をかぶったりして粋がっていた。でもこの頃そういう粋がる余裕がなくなってきたのだと思う。なるべくちゃんと流行りを抑えて無難な格好をしたいと思うようになった。あんな変な格好をして粋がって大学やその周りの町をウロウロしていた僕を、今になって少しカッコいいと思う。

 そうは言っても、流行りの格好をしているという気分は安心感があって、休みの日のたびにそのセーターを着ている。

 

 話は変わるけれど、この頃娘と仲がいい。今は家内と娘の間に僕の布団が敷いてある状態で、明け方になると娘が寝ぼけて僕の布団に入ってくるので一緒に寝ている。先日、試しに「今日はお父さんと寝よっか」と聞いてみると「おとうしゃんとねる」というのでそのまま家内には寝室から出て行ってもらい、二人でコソコソと話をしながら娘にトントンをしていた。次第にふとトントンをし忘れている自分に気付いたり、お互いの返事が遠くなっていったりするうちに、どちらが先ともなく寝てしまっていた。朝になって家内の「寝た?」というLINEに気付いた。娘が生まれて初めてこんなに穏やかに寝かしつけが成功した。これは我が家にとって感動すべき出来事である。

 寝かしつけだけではなく、もちろんご飯もシルバニアファミリーもレゴも公園遊びもお父さんと娘は一緒にいっぱい楽しんでいる。確かに心行くまでTVゲームでもして過ごしたいと思わないこともないが、これも人の親になった喜びだと思って我慢したり妻子の寝静まった夜中にこっそりやっていたりしている。なんにせよ父娘仲はよい。

(娘が生まれてから、仕方ないのだけど家内に投げかける視線が減ってしまった。近頃は減ったことすら慣れてしまった気がする。ときどき家内の顔を見てこんな顔だったっけと思うのだ。これはよくないなあ……。)

 

 そういえばサンタクロースデビューも果たした。プレゼントを調達して12月24日の晩に枕元に設置する。それだけ、案外なんということもなかった。惜しむらくは家内に贈るクリスマスブーケもカードと一緒にダイニングテーブルに置いたのだけれど、置いている間に家内がトイレに起きてきてしまったことだ。これは失敗だった。

 クリスマスイブにピザとチキンとシチューとケーキで腹を満たしたので、僕も家内も腹にもたれて(娘は知らん)、翌日のクリスマスには沖縄料理屋でソーキソバやゴーヤチャンプルーを食べた。これはこれでよかったと思う。

 

 書くことが無くなったのでおわり。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

高尚な恋から疎外されたものたちの慰め。

『マチネの終わりに』を読んだ。

「結婚した相手は最愛の人ですか」という不穏な帯文に尻ごみをしていたけれど、ネットでの評判がいい(っていっても平野啓一郎がご丁寧にRTしてくれるもんだからそう思い込んだのかもしれない。営業活動って大事だ)ので手に取った。

 まずカバーがとてもおしゃれ。シンプルで上品ながらも、黄色と青の大胆な色遣い、というかほぼ色遣いしかしていないんだけど、それが強く目を惹いて一度視界に入ろうものなら忘れられない。そしてまんまと手に取ってじっくり眺めてみると、タイトル『マチネの終わりに』の通りに(そうなんだろうか)昼の明るさがだんだんと夜へと溶け合っていくような、その境界線のどちらの色ともつかないにじんだ淡さに見とれてしまう。SNS映えもする。

 

 さて、内容については、二人の主人公の人物造形があまりに華々しく、読者として外野からこの恋にわいわいと盛り上がるのに始終空しさがつきまとった。あるいは物語の中で様々な登場人物たちが会話を交わす。そこには深い教養が感じられ、思索的で理知的でかつおしゃれであり、僕が口を挟む余地が全くないどころか、こちらの存在を全く無視したままに頭上で会話をされているようだった。

 そうやって高尚な登場人物たちから置いてけぼりにされていることを感じつつも、それでいて物語の展開はしっかりとわかりやすく、易々とその恋の成り行きにハラハラドキドキさせられる。そうしてもう一度、遠く遠くの場所から近づくことも許されないくせに、一丁前に胸を躍らされてしまった空しさを感じる。

 この小説を読みながらそういう自分に気付かされるたびに、その圧倒的なまでの才能を隠そうともせずにただ一人の手でこの物語を生み出した作者に嫉妬じみた反発を抱き、そしてまた平野啓一郎という天才に恐れ多くも嫉妬する自分の身分不相応さが尚更に惨めになるのである。惨めスパイラルだ。

 そんな惨めな思いを抱えながらも、とにかく物語がわかりやすく面白いので、最後まで読むことがやめられなかった。

 

 せめても慰められたのは、二人の主人公が生活の中で子どもと(精神的な意味でも)向き合う場面である。この、子どもの指の一本一本の先にまで愛情を感じ、また目の前の我が子の生命を全くの無条件に全肯定して守ってやりたくなるような感覚には、確かに僕にも覚えがあり、ようやくこの場面において主人公たちと同じ目線で作品の中の世界を(あるいはそれぞれの我が子を)眺められたのだった。

 

 それにしてもこれほどにわざとらしいまでの主人公二人の人物造形は、読者に易々と感情移入をすること許さずにあくまで遠くの外野席に突き放したうえで「観客として」この恋に立ち会わせるという、作者のちょっと残酷でもある狙いがあるのかもしれない。

 その狙いが意味するものはなにか。ふと思ったのは、読者と同じように、この恋からの疎外感を抱いている登場人物が一人いることである。彼女はこれからどうやって生きていくのか。彼女の過去もまた、未来によって変えられるのだろうか。彼女について考えることが、読者にとってそれぞれの「過去を変え得る未来」に立ち向かわせる一歩となるのかもしれない。