凡庸

週一くらいが目標です。

荒神口にあった行ったことのないパン屋の思い出。

 本当は少し前からカーテン越しの日差しにあぶられて起こされていたのだけれど、起きたところで何かするつもりもなく、僕は頑なに目をつぶって眠りにしがみつこうとしていた。あなたの部屋は南側に面したベランダに出るための大きな窓があって、ベッドはその窓に沿うように置いてあった(だから洗濯を取り込むにはベッドを越えていかなくてはいけない)。その日僕はその眩しくってしょうがないベッドで、昼近くまで寝ていたのだった。

 眠るのをあきらめて起き上がる気になったのは、玄関の鍵が開けられる音がしたから。大学の授業を終えて帰ってくるあなたを迎えるのに、布団をかぶった状態じゃあんまりにもみっともないと思ったのだ。僕は部屋着で寝ていたのか、普段着で寝ていたのか覚えていない。とにかくベッドに腰かけて「いままでずっと寝ていたわけではないのですよ」という顔をして玄関が開けられ、あなたが入って来るのを待っていた。

 いや、もしかするとそのとき僕はまだ寝ていて、あなたに揺り動かされて目覚めたかもしれない。昔の記憶には色んな断片がごちゃごちゃにくっついてきてしまう。だから自分が確かな記憶だと思っているのは、そういう断片を貼り合わせたフィクションなのかもしれない。まあいいや、僕は懐かしいフィクションを忘れないようにしたいと思っている。

 そう、僕はベッドに腰かけ(あるいは夢の中で)あなたを待っていた。「ただいま」「おかえり」「起きてたんや」「うん」。あなたは僕の隣に腰かける。

 「買ってきたよ」とビニール袋を差し出すあなた。ビニール袋を覗くとさらに紙袋が入っている。紙袋には少し油が滲んでいる。「パンやで」とあなたは言った。

 「荒神口においしいパン屋があるねん。帰りにちょっと遠回りして買ってきた。食べる?」「うん」と返事しながらベッドからずるっと降りて、目の前のちゃぶ台の上で紙袋をガサゴソとやる。

 三角のクロワッサン(パイ?)にチョコチップがくっついているやつだった。僕はチョコレートが好きなので、それは当然僕に買ってきてくれた分だと思い「ありがとう」と言った。あなたの分のパンが何だったのかは完全に忘れてしまった。ので、今の僕から昔のあなたにバターのいい匂いがするマフィンをあげよう、食べていいよ。

 それからマグカップに牛乳を注いでもらって、お皿の上で(あるいはゴミ箱を抱えながら)僕はパリパリとクロワッサンを食べた。ちょっと油っぽくてチョコレートもいい匂いがして、それは覚えている。

 「おいしいやろ」「うん」「荒神口のところにあるねん」「荒神口ってどこ?」「御所を下りてくる丸太町通りの手前くらいのところ」「ふうん」

 「おいしいね」「足りる?」「ありがとう、大丈夫」「こないだそこで買って鴨川の土手で食べたらおいしかってん」「うん」「またこんど一緒にいこな」「うん、連れてってよ」たぶんそんなことを言いながら食べた。僕たちがしそうな会話だ。

 でも僕はその店の外観が全く浮かばないので、結局その店には二人で行かなかったんだろう。おいしいクロワッサンだったのに。

 そのあと「荒神口」を見ると、行ったことのないそのパン屋を思い出す。あなたとも何度か「あのパン、おいしかったのになあ」という話になることがある。まだそのパン屋があるのかどうかもわからないけれど、二人の間ではなんだかもう無いことになっている。調べてすらいない。

 たぶん春だった。もしかすると今が春だからそう思うだけかもしれない。

がんばれ紙の本。

 本屋が不振だっつって、年が明けてからそのことをまさしくわが身のこととして身につまされている。住んでいるエリアのあちこちで店を開いていた小さなチェーンの本屋が一斉に店を閉めてしまった。破産したそうな。おかげで職場から家までのルートに一軒も本屋がなくなってしまった。これはとても困ったことだ。

 右も左もわからずに大阪に来てからずっと心の支えだったスタンダードブックストアも4月でなくなってしまうそうだ。「さすが都会にはこういう文化的な店がやっていけるんだなあ」と思っていたのに。

 僕たちは本屋がやっていけない町に住んでいる。本屋がやっていけない時代に生きている。

 千日前のジュンク堂ドン・キホーテにされたときの絶望はいまもまだ続いている。

 

 とか言って、まだ自分も本にお金をかけ足りないのかもしれない。常に何かしら読む本がある状態が続いているけれど、もっとペースをあげて、借りたりせずにちゃんとお金を出して、もっともっとお金をかけなくちゃいけないのかもしれない。

 本を買うのは勇気がいる。本はお金がかかるし、時間もかかる、場所もとる。お金を出したからにはちゃんと最後まで読みたい(図書館で借りた本はそうでもない)。でもその本が面白くなかったら最後まで読むのに時間がかかる。高い本は場所もとるからそう気軽にポンポンと買えない。

 だから本屋で買い物をするのは時間がかかる。どの本を読むのか、これからしばらくの時間を共にする(大げさに言えば寿命を捧げる)本だからじっくり選ぶ。

 

 そうそう、こういう「じっくり選ぶ」って本屋ならではだと思う。

 欲しいと思っていた本って、こんなこと言いながら実は本屋にはないことが多い。始めからこれ、と決めてる場合はAmazonのほうが早い。でもそこまで熱心な読書家ではないので、だいたい本を読みたい気持ちはなんとなくだ。その「なんとなく」にしっくりくる本は、やっぱり生の本をざーっと眺めてフィジカル的に出会わないと見つからないと思う。

 だから僕には実店舗の本屋が必要だ。できればちょっと癖のある選書をしてくれる本屋の。本屋にはキュレーターとしての役割を求めている。(あのDJは自分の知らないいい曲をかけてくれる!みたいな)

 

 あと雑誌を見たいんだよなー。好きなんですよ、雑誌。POPEYEとかMeets RegionalとかGO OUTとかMONOQLOとかHobby Japanとか映画秘宝とかダ・ヴィンチとか。さすがに毎回全部買えないんで、申し訳ないけど立ち読みしてる。パラパラっとでいいから立ち読みさせてよ、本屋さん、たまに買うから。

 家ん中でふっと手持無沙汰になったときに読める雑誌があると、なんとなくリッチな気分になる。今月号のPOPEYEは台湾特集で、この先台湾に行く予定なんて全くないんだけど、ちょっとコーヒー淹れて細かい字のところとかも読んだりしてるととても楽しい。いいなあ、台湾。数年後に結婚10周年になるし、もうちょっと大きくなった子どもを実家に預けて家内と2泊3日くらいで行けないかな。

 そんなPOPEYEの台湾特集だって、本屋でパラパラっと見なかったら買わなかった。だって台湾いかねーし。「人はある程度ネタバレしてるものにしかお金を払わない」ってどこかで聞いたことあるけど、金言だと思う。というわけで本屋さんにはちょこっと立ち読みをさせていただきたい。

 

 雑誌、いいよなあ。インターネットも好きだからだらーっとスマホを見たりもしてしまうんだけど、最近のインターネットってあんまり未知のものに出会えない気がする。自分の好きなもので固めてるから、自分の好きなもの以上のものにアクセスするのはとても大変になってる。

 一昔前には「ネットサーフィン」なんつう言葉もあって、まさにその当時の間は「なんじゃそれ」と思ってた。でも今になって思えば、たしかにサーフィンだ。サイトのリンクからリンクへたどっていくうちに、何か変なところへ迷い込んだりもした。すごい面白いサイトが次々に見つかるときなんかは「いい波きてたな」って感じだった。でもいまは違って、googleで検索したサイトで行き止まりだ。リンク集も○○同盟もない。

 なんだっけ、雑誌だ。雑誌は購入してしまえば一つのパッケージだから、始めは興味なかったページもなんだかもったいないから読む。読むと何となく琴線に触れる気がする。いい雑誌はそれ一冊で一つの世界観を共有しているから、興味があった記事もなかった記事もどこかでつながってるせいだろう。

 

 なんつうか、本屋も雑誌も、ちゃんと誰かが面白いものを選んでまとめてくれてるところがいい。google検索時代の現在は、自分の知らないものにいかに出会うか、知らないものを面白がれるか(面白がれる状態でいられるか)って大事だから、やっぱりそういう出会いをさせてくれる場として本屋も雑誌も大事だと思う。

 あと、お父さんとして子どもたちにそういう出会いの場を作ってあげるためにも、いまからきちんと「本棚」を育てていかなくちゃいけないと思ってる。本を買って本棚に収めるとき、数年後その前に立っているかもしれない子どもたちを思い浮かべている。…立っててくれるかなあ。とにかくそういう機会だけは作っておかなくちゃと思っている(ので新しい本棚を買い足したいって言ったらお許しが出るだろうか)。

 

 がんばれ紙の本。それから今度はもっとちゃんとお金使うから帰ってきて、天牛。

ギャルっぽい女医さんはタミフルをくれませんでした。

 新年早々えらい目にあった。家族4人体調を崩した。病気としてはっきり判明したのは下の子のインフルエンザ陽性だけで、あとはみんな陰性。でも家内と上の子はとりあえず、とタミフルを処方されていた。僕だけタミフルをもらえなかった(別に同じお医者にかかったわけではないけど)(僕が診てもらったのは若いギャルっぽい女医さんでした)(後日近所の医者に診てもらってもインフルの反応は出なかったのでギャル女医は正しかったのだと思う)。

 たぶん自分ひとり、あるいは大人たちだけなら自分の体調を適正な状態に引き戻すのはそれほど大変じゃなかったと思う。けれども具合が悪くてメソメソ泣いたりしている子どもたちを気遣いながら自分の体調をなんとかするのは大変だ。

 自分たちだけ適当にカロリーと水分をとって気のすむまで布団をひっかぶってしまうわけにもいかず、こちらも体調が悪いながらも子どもたちを抱きかかえてやり、口にゼリーを運んでやり、お茶を沸かしたりコップに注いでやったりし、眠れるまで添い寝をしてやり…。バットマンダークナイト(ヒースレジャーのジョーカーがカッコいいやつ)で、「自分が全然大丈夫じゃない状況で愛する人に『大丈夫だよ』と言う辛さがわかるか」というようなセリフが出てきたのを思い出した。

 とはいえ、結局家族で布団をひっかぶっているしかなかったんですけどね。…いや、上の子が半べそかきながら「おしっこでちゃうー」と何べんも起きるので一緒にトイレに連れていってやり、下の子が寝ながら咳でむせた勢いで布団に吐いてしまったのをふらつきながら夫婦二人で処理した。やはり布団をひっかぶっている場合ではなかった。

 まあ、大変だったんすよ。

 

 僕以外の3人はタミフルを処方されたのだけれど、そのタミフル特有の副作用か、上の娘が「部屋がうるさくて寝れないー」と半べそをかいて起きたり「人が多すぎるー」とやはり半べそをかきながら起きたりした。もちろん寝室には家族4人が少しでも体調を戻そうとこんこんと眠っているだけだ。心霊現象かと不気味な気もしたけれど、こちらとて体調が悪くそんなことにかかずらう余裕もないので、娘には「大丈夫だよ」と言って再入眠させた。

 そして熱が下がったあとも処方された分は飲み切らなければいけないのでタミフルを飲ませるのだけれど、微妙にいつもと性格が違う気がする。妙に口数が多く陽気で、意味のないことを口走る。まあ正月休みのテンションを引きずってることにしてもいいけれど、僕としてはタミフルの副作用だと思っている。

 家内と下の娘は特に変化はなかった。

 

 それにしても家内が年末年始の帰省に懲りてしまったようで、来年は遠慮させてもらおうと言っている。確かにわざわざ混んだ高速道路を寒い時期に寒い地域に向かい、そこで寒いのをこらえながら数日過ごすこともない。もっと穏やかな気候の時期に行けばよい、道理だ。道理ではあるんだけれど、両親から孫を引き離して生活している負い目を感じているのでできれば時々は実家に訪ねてやりたいと思う。でも家内の言うことこそ道理なのでなにかうまい落としどころを見つけたい。僕のじいさんばあさんにもあと何度会えるかわからないし。

 

 そういう散々な2019年の幕開けだった。帰省自体は両親も大層喜んでいたし、子どもたちもずいぶん楽しんでいた。僕もガンプラを組み立てたり高いすき焼きを食べさせてもらったりよかった。やっぱり家内がかわいそうだな、年末年始(あとお盆)の過ごし方、考えなおさないと。