凡庸

週一くらいが目標です。

凡庸の凡庸(2020.02.09)

 前日は夜遅くまでPrimeVideoでキアヌリーブスのジョンウィックを見ていた。見たいときに見れるのでPrimeVideoは便利である。

 亡くした妻の残した愛犬を町のチンピラに殺された伝説の元殺し屋がそのチンピラの所属するマフィアごと壊滅させてしまう、という痛快無比なストーリーで、そのテキパキとした手際の良さに、殺し屋のことを仕事人とはよく言ったものだな、と思う。大都会の裏にうごめく暗黒社会の笑っちゃうような描写も男子ゴコロをくすぐる。2まで見たけどこの辺の設定がさらに大げさになっていたのでよかった。見終わってからジョンウィックのような手際の良さで皿を洗ったりして寝た。(それはそうと最近は人が死ぬ映画はうまく気持ちを切り替えないとしんどいときがある)

 

 どんなに夜更かしをしても日曜日の朝はプリキュアのために8:30までには起きないといけない。女児の親の辛いところである。さらに日曜の朝には子どもにくじ引きをさせてくれるパン屋が近所にあって、そこへ早起きの長女と朝ご飯を買いに行くのもなんとなく習慣になっている。だからそれに間に合うように起きなくてはいけない。しかもその日はいつもはダラダラ寝ているはずの次女まで起きてきて、置いていくわけにはいかず「早くしないとプリキュア間に合わないよ」と急き立てて着替えさせ、自転車に乗せてパン屋へ行った。我が家の日曜日はプリキュアが予定の起点である。寒い寒い朝だった。

 アンパンとクリームパンと唐揚げパンとたまごハムパンとカツサンドを買って、子どもたちはくじを引かせてもらった。すると二人とも一等賞(三連プリンorゼリー)が当たってしまい、そんなに食べられないし、いつも日曜日にしか来ない上にそんなに買い込むわけでもないのでなんだか申し訳なくなってしまい、片方の一等賞は辞退した。代わりにミッキーのボトルのエビアンをもらったが、長女は「せっかく二人とも一等賞だったのに」とやや不満げであった。帰るとプリキュアにはギリギリ間に合った。

 コタツに入ってプリキュアを見ながら子どもたちにパンを食べさせていると家内が起きてきた。家内が起きてくると布団が干せるので、干して、和室に掃除機をかけた。和室が掃除できるとそこに子どもたちを片づけておけるので移動してもらい、リビングに掃除機をかける。平日はなかなか掃除機をかけようという気が起きない。

 

 そのあと洗濯をしたり食洗器をセットしたりしているうちに、家内が出かける時間になった。大学時代の共通の友人が舞台に出るというのでその観劇に行くのだった。同じタイミングで僕と娘二人も公園に行った。

 少し前から長女は保育園でドッジボールをやっているそうで、それならと先日スポーツ用品店ドッジボールを買った。それを持って行って公園で遊んだ。家では長女も次女も布製の小さなボールを上手に投げたりキャッチしたりしているのだけれど、やはり子ども用とはいえ大きいようで、自在に投げたりキャッチしたりはできず、最終的にあっちこっちへ転がるボールをみんなでわあわあ言いながら追いかけていた。

 ボールに飽きると、みんなで遊具のほうへ行ってブランコを後ろから押してやったり(長女がいまの次女くらいの頃にはあまりブランコを押してやると怖がったものだけど、次女は姉と同じくらいに押せと言うのでこちらが怖いくらいだ)アスレチックに挑戦するのを見守ったりした。

 そろそろ寒いしお昼ご飯だし帰ろうと提案するも、もう少し遊びたいと言う。折衷案として何かもう一つ遊んだら帰ろうということになり、またボールで遊ぶことにした。同じように投げたり蹴ったり追いかけたりして三人で遊んでいると、お母さんに連れられた小さな男の子がこちらのボールを見ていた。

 どういう経緯だったかは忘れたのだけれど、たぶんこっちから声をかけてその子も一緒にボールで遊んだ。長女が上手に遊んであげるのはそんな気がしていた。しかし、次女もその男の子が自分より小さいことがわかったのか、いつもなら(というかつい直前まで)ボールを独り占めしたりして自分の好きなようにしないと気が済まないくせに、その男の子がボールを持って行ってしまってもニコニコしながら気長に待ってあげていたのには少し驚いた。家の中では赤ちゃんのような扱いをされ、本人も傍若無人にふるまっているのに、それ以外の場所では自分の立場とかそういうものを意識することもあるのだ。たぶん保育園のおかげだ、ありがたい。

 男の子のお母さんがやたらと恐縮しきりで、気を遣わせてしまったら申し訳なかったのでお昼ご飯の時間ということにして「またね」と切り上げて帰ることにした。

 

 帰りにはじゃんぼ総本店に寄ってたこ焼きとオムそばを買って帰った。ふと思うのだけれど、やっぱり生粋の大阪人はじゃんぼ総本店や銀だこでたこ焼きを買うのに抵抗があるのだろうか。生粋の大阪人である姉妹はそんなことは気にせず、モリモリとよく食べていた(次女はたこ焼きを「おもちみたいなのちょうだい」と言っていたけど)。

 その後みんなで昼寝をした。少し寝すぎた。お昼寝明けに一等賞のゼリーをみんなで食べた。

 

 夕飯にはカレーライスを作った。カレーにひき肉を入れると、どこをすくってもまんべんなく肉にあたるのでおいしい。豚肉も入れたら肉だらけのカレーになったけれど、次女がウインナーも焼いてくれとうるさいのでそれも焼いた。長女は目玉焼きを両面焼きせよというのでそれにも応えた。カレーを作ってる間子どもたちは二人で遊んでいた。きょうだいがいるのは助かるなあ。家内は夕飯ごろには帰って来ていた、と思う。

 

 家内の生理がいつもより遅く、もしやと思ったけど単に遅いだけだった。変な話だけれど別にそのつもりもなく、そもそも思い当たる節といえばそれでそうはならんやろ、みたいなアレだったので、まったく気持ちの準備ができておらず二人で少しそわそわした。でもそのそわそわは、期待とかワクワクが大きいそわそわであり、結果として勘違いみたいなものに終わってホッとするやらなんやらだったのだけれど、そういう事態になったときに二人は喜べるんだなということがわかった。よかった。先の見えない世の中において湯水のように金が使えるわけではない家計事情なので、新しい家族について冷静に考えると慎重になってしまうけれど、こんなふうに運命がおりてきたときに素直に喜べるんなら新メンバー、加入してくれてもいいなあ。お金があればもっといいんだけどね。

我々は「装う」ためのコストを見誤っているのかもしれない。

 ウルフルズの名曲「バンザイ」の歌詞の中に「ダサいかっこはしたくない 歳は取らないように」というフレーズがある。

 わかる。最近になって特に思うのは、年甲斐もなく流行りの格好するのは恥ずかしいと思いがちだけれど、本当は逆で、歳を重ねてきたからこそ適度に流行は取り入れていかないとどんどんダサくなって歳をとるスピードも加速していく。

 「シンプルなものは古びない」とか言ってたノームコアだって、多分いまなら「無課金」とか「パジャマ」とか言われるんだろう。まあ多少譲るとして白いTシャツにデニム、みたいなシンプルな格好をしてもいいけれど、3,4年前の白いTシャツとデニムを脱いで、新しくTシャツとデニムを買ってこなくてはいけない。微妙にシルエットとかが変わっていたりしておなじ白いTシャツとデニムに見えても、多分数年前のものと今年最新のものとではイケてる感とかが違うのだ。多分。

 そんなことにも気づかずに、一緒でしょ無駄無駄、とか言うようになってしまうと、みるみるダサい格好になり加齢は加速する。

 

 そんなようなことを少し前から思っていて、同じようなことをブログにも書いたような気がする。

 思うのは易いのだけれど、行うのは難く、それでもそれなりに今風であろうと、やはり先日都会に出かけて服を見繕ってきた。

 まあせっかく都会で買い物をするのだしシュッとしたナウいやつを、そうだな、ここは豪儀に2、3万円ほど払ってほいほいと買ってやれば僕もたちまちに流行りらしくなるだろう。そういうつもりで都会に出かけた。

 

 結局その日買ったのは、本とプラモデルと塗装下地のスプレーだった。シュッとしたナウい服は買えなかった。

 半日都会をあちこち歩いて、たくさんの服屋を覗いた。ちょっといいな、と思う服もあった。そのなかに値札を見て目ん玉が飛び出るような服はなかった。それでも都会で服を買うこともなく帰ってきた。自分には自分が着るべき一着を選べなかった。それを着ている自分が、かっこいいのか、今らしいのか、まったく想像できなかった。想像ができない服にお金をポンと払えなかった。

 

 プラモデルを買って帰りながら、僕は「装う」ということについて自分はコストを見誤っていたのではないかと考えたのだった。

 もしかすると、例えば2万円の服を一着バシッと買ってバシッとかっこよく着るためには、それ以外に10着くらい2万円の服をヘナヘナと買って帰って着てみてもなんか違うとヘナヘナとなる必要があり、それを経てようやく初めて2万円の服をバシッと一着かっこよく着れるのかもしれない。センスのいい人は10着も失敗する必要ないのかもしれないけれど、そのセンスを育てるのだってたくさん挑戦して失敗もしただろう。

 それを、この僕はといえば、豪儀ぶって、どれ2,3万円も出せばよろしい服が買えるのじゃろなどと思い込んでいた。しかし普段大してアンテナを張っていない素人が、急にふらっと都会にやってきてあまたに点在する服屋のさらに膨大な衣類群の中から、ナウでかつ自分の(曖昧な)感性や(ダサい)美意識にかなう一着を一本釣りできようはずもない。

 それこそまさに「おしゃれは一日にしてならず」(クソダサい)である。日ごろから都会に足を運んで、服屋を覗いたり道行くナウな若人たちの装いを観察して、そしてユニクロなら3着くらい買えそうな値段帯の服でも失敗を恐れずにどんどん買い、さらに家に帰って着てみて「なんか違うかも」と思いつつも試行錯誤して着こなす。そうやってようやくナウさと自分の感性と財布事情のバランスが見えてきて、気に入る一着がバシッと買えるのだろう。

 つまり、装うには日ごろから服屋を覗いて時間をかけ、毎シーズンのように色んな服を買ってみて金をかけるべきで、そうしてようやく自分に見合った装いが身に着くということだ。

 「自分は普段時間がなくてとりあえず適当に済ましているけれど、別に2,3万の服をホイッと買えないわけでもなし、その気になれば洒落た格好ができるんだぜ」とか言ってるやつ(自分)は装うための相応のコストを払えないからそういう格好をしているわけであって、やはりそのへんをナメていると、ダサいかっこでどんどん歳を取っていってしまうのだろう。悲しい。

 

 おまけに自分の格好を装うにあたっては客観的に見られないのも難しい。装ってみた状態を良し見ようと悪しと見ようと、とにかく自意識が邪魔をする。

 自分ではいいと思っていても傍から見ればクソダサかったり(そこで「自分の好きな格好だからいいのだ」と開き直れればいいけれど、歳をとらないよう流行を気にするのであれば、やっぱりマジョリティたちの感性にウケたい。自分の好きなアホな格好は、それはそれで別の話とする)、逆にそれを着ておけば間違いはないはずなのに「もうちょっとトガりてぇ…」と棚に戻してしまったりする。

 そういう「自らを」装うという点も、装いに鍛練が必要とされる根拠だろう。装うことについて鍛練をし、自意識のバランスを見出すためにたくさん失敗をして学ばなくてはいけない。これが本やプラモデルなら服に比べて自意識の入る余地はほぼないので簡単にポンと買えてしまう。

 

 やっぱり装うことは難しい。誰か服をポンと選んでくれたらいいのに(そうしたら「もうちょっと攻めたいんですよね…」とか言うから)

ノスタルジイと意外性

 先日、家族でみさき公園に行ってきた。みさき公園大阪府のほぼ南の端あたりにある遊園地と動物園の複合施設で、昔から南大阪の人たちに親しまれてきた遊戯施設だ。しかし数年来の経営不振で、とうとう経営母体がその経営権を手放すことになってしまい、来春にめどがつかなければ閉園となってしまう。そんな施設だ。

 長女は夏ごろに従姉と一緒に祖母に連れられて行ったのがとても楽しかったらしく、本当はアドベンチャーワールドに行きたかった家内に一歩も退かぬ粘り強い交渉で、我が家のみさき公園行きが決まった。僕と次女は初めてのみさき公園だった。

 

 少し早起きして、家内にはお弁当と作ってもらって、のんびりと車で向かった。駐車場は、さわやかな秋晴れの休日にしては車がまばらだった。まあ鉄道会社が経営する施設だけあって電車での交通の便がいいっていうのもあるんだろうけど。

 似たような小さな子ども連れの家族たちの後ろに続いてゲートをくぐると、二日前に終わったはずのハロウィンの写真スポットがあった。そういう鷹揚さは嫌いじゃないので、子どもたちに立ってもらって写真を撮った。

 

 どこで何を見るべきかもわからないので、家内の子どものころの記憶を頼りにひとまずキリンを見に行った。キリンはずいぶん間近に見れた。あんなにキリンの「顔」をまじまじと見たのは初めてだった。それだけでも価値のある施設のような気がして、さっそくこの園が失われるかもしれないのが惜しい気持ちになった。

 ああだこうだ言いながらキリンをのんびり見物していると、長女がどこからか聞こえてくるプリキュアの音楽を聞きつけた。もしやと思って音のするほうへ向かうと、大きな屋外ステージがあり、そこでショーが行われるらしい。そんなの見たいに決まってる。背中を日光であぶりながら開演を待った。

 ショーが始まりアナウンスのお姉さんが登場すると同時に、音楽が一段大きくなった。うちの姉妹は大きな音が苦手なのでとっさに僕と家内はそれぞれの膝の上に座っている子どもたちの耳を軽く塞いだ。子ども向けのショーなんだからそんな大きな音を出さなくても。

 長女は最後まで楽しんだようだけど、僕は途中で席を立った。悪者が出てきたタイミングで次女が怖がりだしたのだ。ほう、君もそういうのがわかるようになったのか、と感心しながら長女と家内を置いて観覧席を離れた。

 近くに古ぼけたゲームコーナーがあったのでそこで時間を潰した。小さな子たち向けの、お金を入れると前後左右に動くアンパンマンやトーマスの乗り物があったので、他のお客さんがいないのをいいことに、次女に言われるがままあちこちに座らせてやった。自分が子どものころにも見たような、懐かしい乗り物やゲームマシンがたくさんあってノスタルジイを掻き立てられた。

 プリキュアショーにはカメラを構えた大きなお友達や、キュアスターの衣装を身にまとった(おそらく)お兄さんなんかもいたけれど、家族連れたちとお互いを意識し過ぎずにすむようなのんびりとした距離感を持ってショーを鑑賞していた。そういうのどかな開放感があるのはいいと思った。

 

 ショーが終わり、そのままイルカショーの時間が近づいていたのでそのまま向かった。広々とした園内だったけれど、ノリノリの長女はもとより次女もぐずらずに景気よく歩いてくれた。

 イルカショーも正面のいい席はだいたい埋まっていたけれど、直前に到着しても労せずよく見えそうな席が確保できた。そもそもそれほど大きなプールではないので、どの席からもすぐ近くで見える。そしてイルカプールの向こうには空と海が見え、ここでも開放感が気持ちよかった。

 イルカショーは子どもたちとすごいね、すごいねと言いながら楽しんで見た。プールとの距離が近いのでイルカの体の肉のしなりや躍動感がよく見えた。ここでは次女も怖がらずに最後まで楽しめた。

 

 見終わってちょうどいい時間だったので、家内が作ってくれたお弁当をベンチに座ってみんなで食べた。ベンチの上で子どもの世話をしつつ弁当を保持してかつ自分も食事する、というのは結構大変だった。子どもも大人も、おにぎりにしたらいくらでも食べられてしまう。

 腹ごしらえをして、子どもたちの望むままにトランポリンをさせてやったり、ちょっとした乗り物に乗せてやったりした。どうせ数百円のことなので、こういうのはできるだけやらせてやりたいと思う。メリーゴーランドには家族みんなで乗った。

 

 それからまた少し園の中を歩いて動物のふれあいコーナーに行った。小さな動物に餌をやったりモルモットを抱っこさせてもらったりできるということだった。初め長女と家内だけで中に入ったけれど、次女も動物に触りたがったので結局みんなで中に入った。

 意外だったのは次女が物怖じせず、餌を乗せたスプーンを動物たちに突き出して突撃していくことだった。長女は、今の次女よりもう少し大きくなった頃に別のふれあい動物園に行った時にもずいぶん怖がったものだったので、てっきり子どもとはそんなものかと思っていた。

 しかし次女は果敢にウサギやヤギに餌をやり、かごに入れられたモルモットを膝の上に乗せてもらい慈しみ深く背中を撫でていた。子どもが二人になってから、それぞれで違うもんだなあと思わされることが多い。

 そのあと長女はポニーに乗せてもらった。次女も乗りたいとゴネたが年齢制限にひっかかって乗れなかった。「また今度来たとき乗ろうね」と言いつつ、彼女が乗れるようになる頃にはもうこの施設自体がないかもしれないとふと思った。

 

 最後に僕のたっての願いでナマケモノを見に行った。僕は動物の中でナマケモノが一番好きだ。その次にタヌキだ。どちらもなんだか間抜けそうなイメージを負わされているところがいい。

 ナマケモノは木の枝に背中を持たせかけて、だらしなく枝に片腕を引っかけて寝ていた。木の下に落ちて幹にもたれて申し訳程度に片腕をかけて寝ているやつもいた。彼らのだらしなさに大変満足し、僕たちは帰ることにした。

 この他にも珍しいやつやかわいいやつなどたくさん動物がいた。遊園地エリアにいたってはほぼ丸々見ずじまいだった。

 

 気付けば夕方までたっぷりと遊べた。5歳も2歳もしっかり堪能し、お昼寝もしていないのにご機嫌にたくさん歩いてくれた。遊園地というと混みあったり並んだり食事にありつけなかったりと、小さな子どもを連れて過ごすには大変なイメージがある。御崎公園はそういう心配を抱えた家族にはいい施設だった。広々とした開放感がいい。

 動物の展示だって色んな動物たちを間近に見られて、正直こんなに楽しく見てまわれると思っていなかった。大人としても結構満足した。

 それから自分が子どものころに、ショッピングセンターのゲームコーナーで見たような遊具がたくさんあったのも、それだけでもアラサーたちは一見の価値があると思う。

個人的に一番刺さったのはコイツ。f:id:goodhei:20191102120723j:plain数年ぶりに幼馴染に会ったような深い感慨があった。なんならウチに引き取りたいくらいだ。

 

 こうしたのんびりした施設がとてもありがたいので、なんとか買い手がついてほしいもんだ(まあのんびりしてるからダメなんだろうけど)。