凡庸

週一くらいが目標です。

愛してやまないメガネモチーフの話。

身の周りにメガネモチーフが多い。

家の中で使っているもののうち、マグカップが一番のお気に入りである。結構長いこと時間をかけて運命の一器に出会うことを待ち続けたマグカップだ。
たっぷりとした容量といい、適度な重みといい、手になじむ大きさといい大変気に入っている。
なかでも僕が目を惹かれたのは、白地に丸メガネが描かれたそのシンプルなデザインである。

メガネモチーフに惹かれる。
うちにはメガネモチーフの手ぬぐいや、しおりとブックカバー、パンツなんてのもある。
自分自身がメガネをかけて、ある程度それでキャラを立てていることもあり、家内からは「自己愛主張するよね」と言われるが、そうじゃない。
いや、多少はそうなのかもしれないが弁明したい。

メガネモチーフのデザインは、僕にとって丁度いいのだ。
たとえばドラゴンをモチーフにしたデザインは、きっとどれも田舎のヤンキーのような、過剰で痛々しいデザインになるだろう。
たとえば花をモチーフにしたデザインは、色味の強い文字通り華やかなデザインだろう。
さて、メガネモチーフのデザインはどういうわけか、ちょっと気の抜けたデザインの物が多い、そう感じる。
その気の抜け具合が僕には丁度いいから、ついメガネモチーフを手に取ってしまう。

なぜメガネモチーフのデザインは気の抜けたものになるのだろうか、と考えてみた。
自分を言っているわけではないけれど、メガネをかけた人はどこか知的な印象も与える、インテリメガネなんていう言葉もあるくらいだ。
きっとこの人は大層お勉強をして賢くなって、その代償に視力を弱らせてメガネをかけているのかしらん、と人に思わせる。
じゃあメガネ=気が抜けている、どころか逆にメガネは関西弁で言うところの「シュッとした」デザインではないか。

でもあくまで知的でシュッとしているのは、「メガネをかけた人」であり「メガネ」自体ではない。
逆にあなたの目の前に持主不在のメガネがあるとしよう。
目の前に持主不在のメガネがある、そこで考えるのをやめてはいけない、「持主不在のメガネ」があるからにはどこかに「メガネ不在の持主」の存在を感じなくてはいけない。
メガネ不在の持主……視力が弱くメガネなしには何も見えない、のにメガネを外した無防備な状態…。
まさに「気の抜けた」状態ではないだろうか?

僕たちは、ただメガネのみがそこにあるデザインを見て、普段は知的でシュッとしている人がメガネを外してリラックスしたり無防備に弱点をさらしたりしている姿を感じているのかもしれない。
だから今日も僕はリラックスして、メガネだけがデザインされたお気に入りのマグカップで牛乳を飲むのだ。