凡庸

週一くらいが目標です。

ぼくたちだけの巨匠が引くきみだけの線。

 コロナのせいなのか、はたまたその前からなのか、人間関係の手入れを怠るせいで話をする相手もすっかり家族か仕事くらいのものになってしまった。おまけに近頃ではインターネットもなんだかイライラするようなニュースばかりですっかり滅入ってしまう。市民感覚を育むためにはそりゃ確かに世の中の問題を避けてないである程度受け止めなくてはいけないのはわかっているけれど、たまには一息入れさせてよね、という感じだ。

 

 インターネットがつまんないなら自分で自分が楽しいと思うようなことを書けばいいじゃん、ということでいまブログを書こうとしている。

 なにがあったっけかな。

 

 とりあえず思いつくところで言うと、こないだ長女に絵を描いてもらった。

 

 実家がダイニングをリフォームしたそうで写真が送られてきた。僕が18まで食事をしていたダイニングはすっかり真っ白にきれいになっていた。ダイニングの中央には大きくて重たいテーブルがあるのだけれど、リフォームを機にそのテーブルもメンテナンスなんだか何だか知らないけれどピカピカにしてもらっていた。

 両親の二人暮らしには大きすぎるそのテーブルだろうに、そういうふうにして残すことにしたらしい様子に、僕としてもなんとなくそのテーブルが家族を象徴するもののような気がしていたのだろう、家族も同じようなことを感じていたのかとすこしうれしくなった。

 それにしても壁はまだあまり装飾がなくてなんだか間が抜けていた。

 

 そこで長女に絵を描いてもらって額に入れ、それをリフォーム祝いにしようと思ったのだ。

 子どもの描いた絵なんてたかが知れているうえに、うちの長女だってとびきりにびっくりするくらい絵がうまいというわけではない。

 だけれど、この年頃に長女が実家に贈るために書いた絵、ということに大いなる価値が生まれるはずだ。その価値ゆえに、我々近親縁者にとってはどんな立派な絵よりも長女の描く絵は物語のあるものになるに違いないと(すっかり家を出てしまった長男は)思ったのだ(両親がどう思うかしらんけど)。

 

 当初は「食事をするところに飾る絵だから、みんなで楽しく食事をしている絵がいいなあ」と僕からオーダーし、長女もその気になって構想にとりかかった。しかしテーブルの上にいろいろ並べたりするのが面倒になったのかして少しほったらかしになっていた。

 とはいえ無理に描かせてもいい絵にはならないし、そもそもが娘を使って楽して親孝行をしようとしている僕のエゴだから、なんとかして先生には気持ちよく絵を描いてもらいたかった。

 

 そこで今度は「じゃあ何か世界の名画を○ちゃんなりにちょっとリメイクして描くっていうのはどう?」と提案してみた。

 これに長女は意外と乗り気になってくれて、ふたりでああだこうだと話をしたあげく、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を真似して、女の人の顔をくまちゃんの顔にしようということになった。くまちゃんの絵は長女が何度も描いたり、絵本や紙芝居を作ったりしているお気に入りのキャラクターだ。

 そして「牛乳を注ぐ女」は僕が加湿器の水を替えるため、タンクを抱えて古い水を洗面所に捨てるたびに「ほらほら、『牛乳を注ぐ女』」と妻にしつこく言うので子どもたちにとっても慣れ親しんだモチーフである。

 つまり長女の絵には、そういう僕たち家族のいまの物語が描かれているといってもいいい。ちょっと親のスノビズムが透けて見える気がするけど(まあそれも含めて)。

 

 天気の悪い休みの日に、長女は2時間半くらいかけて(よく集中できるよなあ)再び構想の絵をメモに書くところから色鉛筆での色塗りまで一気に仕上げた。アンバランスだったり色塗りにムラがあったりするけどそれもいい。いまの長女にしか描けない絵や引けない線があるのだ。僕は子どもの絵のそういうところも好きだ。

 イケアで買ってきた額にいれてやると長女はその出来栄えに満足げだった。自分の為した仕事に自信が持てるというのはとてもうらやましいと思う。

 

 今度実家に行くさいにその絵をリフォーム祝いとして持っていく予定である。ちょっと落ち着いて考えてみると、かなり一方的かつ親バカなプレゼントだ。それでもまあ、両親は喜んでくれるだろうと高をくくっている。よろこんでくれるだろうか。よろこんでくれるといいな。

 

 はー、ちょっとすっきりした。こうやって楽しかった気持ちをじっくりと反芻するのは精神衛生上いい。またやろう。

 なかなか自分も楽しく暮らさせてもらっているじゃないか、という気分になれる。