凡庸

週一くらいが目標です。

高尚な恋から疎外されたものたちの慰め。

『マチネの終わりに』を読んだ。

「結婚した相手は最愛の人ですか」という不穏な帯文に尻ごみをしていたけれど、ネットでの評判がいい(っていっても平野啓一郎がご丁寧にRTしてくれるもんだからそう思い込んだのかもしれない。営業活動って大事だ)ので手に取った。

 まずカバーがとてもおしゃれ。シンプルで上品ながらも、黄色と青の大胆な色遣い、というかほぼ色遣いしかしていないんだけど、それが強く目を惹いて一度視界に入ろうものなら忘れられない。そしてまんまと手に取ってじっくり眺めてみると、タイトル『マチネの終わりに』の通りに(そうなんだろうか)昼の明るさがだんだんと夜へと溶け合っていくような、その境界線のどちらの色ともつかないにじんだ淡さに見とれてしまう。SNS映えもする。

 

 さて、内容については、二人の主人公の人物造形があまりに華々しく、読者として外野からこの恋にわいわいと盛り上がるのに始終空しさがつきまとった。あるいは物語の中で様々な登場人物たちが会話を交わす。そこには深い教養が感じられ、思索的で理知的でかつおしゃれであり、僕が口を挟む余地が全くないどころか、こちらの存在を全く無視したままに頭上で会話をされているようだった。

 そうやって高尚な登場人物たちから置いてけぼりにされていることを感じつつも、それでいて物語の展開はしっかりとわかりやすく、易々とその恋の成り行きにハラハラドキドキさせられる。そうしてもう一度、遠く遠くの場所から近づくことも許されないくせに、一丁前に胸を躍らされてしまった空しさを感じる。

 この小説を読みながらそういう自分に気付かされるたびに、その圧倒的なまでの才能を隠そうともせずにただ一人の手でこの物語を生み出した作者に嫉妬じみた反発を抱き、そしてまた平野啓一郎という天才に恐れ多くも嫉妬する自分の身分不相応さが尚更に惨めになるのである。惨めスパイラルだ。

 そんな惨めな思いを抱えながらも、とにかく物語がわかりやすく面白いので、最後まで読むことがやめられなかった。

 

 せめても慰められたのは、二人の主人公が生活の中で子どもと(精神的な意味でも)向き合う場面である。この、子どもの指の一本一本の先にまで愛情を感じ、また目の前の我が子の生命を全くの無条件に全肯定して守ってやりたくなるような感覚には、確かに僕にも覚えがあり、ようやくこの場面において主人公たちと同じ目線で作品の中の世界を(あるいはそれぞれの我が子を)眺められたのだった。

 

 それにしてもこれほどにわざとらしいまでの主人公二人の人物造形は、読者に易々と感情移入をすること許さずにあくまで遠くの外野席に突き放したうえで「観客として」この恋に立ち会わせるという、作者のちょっと残酷でもある狙いがあるのかもしれない。

 その狙いが意味するものはなにか。ふと思ったのは、読者と同じように、この恋からの疎外感を抱いている登場人物が一人いることである。彼女はこれからどうやって生きていくのか。彼女の過去もまた、未来によって変えられるのだろうか。彼女について考えることが、読者にとってそれぞれの「過去を変え得る未来」に立ち向かわせる一歩となるのかもしれない。