凡庸

週一くらいが目標です。

夜の行き止まりはさみしさの吹き溜まり。

 夜更かしをしていると、ふと「夜の行き止まり」にぶち当たる。ひとりで深夜にパソコンでコソコソやっているときも、誰かとわやわやと飲んでいるときも、ふと夜の行き止まりに気付くことがある。

 昔はそれに気づかなかった。夜は朝が明けるまでだらだらと続いて、飽きたらベッドにもぐりこんでしまえばよかった。たぶん体力もあったし興味の情熱もあったし、何より明日特に何かしなくてはいけないことがなかった。だからだらだらといつまでも夜を引き延ばしていた。

 最近はそうじゃない。この頃とくにこの「夜の行き止まり」を意識するようになった。感覚的に「あ、これ以上起きていても何もないんだろうな」という瞬間がある。あとからわかることもある。「あそこが行き止まりだったのだから、早く帰って寝ればよかった」と。

 なんとなく逃れられないさみしさがある。この夜の先に何かあるかもしれないという一種の貧乏性でいつまでもズルズルと夜を引き延ばしてしまう。でもあの頃のようには体力も情熱もないし、明日だって忙しい。大人にとっての夜はどこかで終わるのだ。それを見極めないといつまでもさみしい思いをしたまま、夜に取り残されてしまう。大人になったらうまく夜の行き止まりを見つけて、さっさと歯を磨いて寝てしまわなくてはいけない。そうしないと、誰と一緒にいたとしてもさみしさを抱えたまま夜に取り残されてしまう。もしかしたらその誰かのさみしさにまで気付いて、引き受けてしまうのかもしれない。

 夜の行き止まりに気付いたらどうしたらいいんだろう。まっすぐにその行き止まりにぶち当たって、そこで夜はおしまい、寝てしまうのが一番いい。一番よくないのは、その行き止まりにたむろして、いつまでもだべっていることだ。そうして吹き溜まりのようにしていれば誰か来るんじゃないかと期待することだ。誰も来やしない、吹き溜まっていくのはさみしさだけだ。

 夜の行き止まりに気付いたら、歩くスピードをゆっくりにしてみるのもいいかもしれない。気付かないふりをして、ゆっくり少しずつ、その行き止まりに近づいていくのだ。誰かと一緒ならうまく歩調を合わせなくてはいけない、ふたりでその行き止まりに気付かないふりをしなくてはいけない。ゆっくり歩くのだ。そうしたら、もしかしたら小さな寄り道を見つけられるかもしれない。

 これはそういうポエムである。