凡庸

週一くらいが目標です。

二月の魔物はどこにいたんだ。

 世間じゃニッパチなんて言って、一般に二月と八月は農閑期(言い方あってる?)なのだけれど、なぜか僕は例年二月になると仕事がバタバタする年が多い。キャパシティもあまりないせいでダイレクトに疲労やストレスに直結してしまう。おかげで寒さと薄暗さも相まって二月は気が塞ぐ。

 毎年心のどこかで気を付けていて、今年の二月はなんだか滑り出しが大丈夫そうで気を抜いていたのだけれど、半ばに差し掛かるあたりから予想外の暗雲が立ち込めて、月末にはてんやわんやである。二月は魔物が棲んでいる。

 そうすると、本当に申し訳ないのだけれど、家族にしわ寄せがいってしまう。仕事が遅くなったり休みの日に出たりする羽目になる。それでも家内は嫌な顔一つせずに子どもたちや家のことを引き受けてくれる、ありがたい。それなのに帰ってきた僕はといえば、わかっちゃいるのだけど、子どもたちの「聞いて聞いて」に作り笑いを浮かべるのもしんどい。それどころか次女には「早く食べなさい」と怒ってばかりいた。

 そんな二月だった。

 

 そんな暗雲にも、月が替わるころにようやく晴れ間が差した。三月は好きだ。否応なく春がやってきて色んなものをリセットしてくれる気がするし、自分の誕生日もある。

 少しずつ仕事が落ち着いたりひと段落したりして、少し体調を崩した家族を気遣えるようにもなった。コタツの中で鬱々として無為に時間を潰し、何かを忘れるように皿を洗ったりゴミをまとめたりせずとも、機嫌よく夜の家事にも取り掛かれるようになった。三月は好きだ。

 

 そして今日は、次女に怖い顔をせずに済んだ。いつものように次女は家族が食べ終わったあとも、もっちゃもっちゃと食事をしている。先週の僕ならきっと「早く食べなさい」を100回は言っていただろう。

 でものんびりと牛乳入りのコーヒーを飲みながら見守ってやると、次女も多少気が散りながらだけれども、今日は自分から野菜にも取り組んでいる。時間がかかっているのはきっとほうれん草の胡麻和えが上手に噛み切れないせいだろう。「お味噌汁飲んで一緒に飲み込むといいよ」なんて声を掛けてやりながら、のんびりと見守ってやれるだけの体力と精神的ゆとりがある。そういえば今日はピーマンの肉詰めの、ピーマンも積極的に食べていたな、なんて思いながら次女を見ていた。次女は最後までがんばってほうれん草の胡麻和えを食べ、味噌汁も飲み干した。えらいね、おやさいがんばってたべたね。

 

 家内は一足先に長女と一緒に風呂に入っていた。お父さんと次女チームは風呂を待つ間、こたつに入って絵本を読んだ(そういえば今日コープから届いた絵本を、初めて読むにもかかわらず、長女が次女にとても上手に読み聞かせをしていた)。

 絵本を読みつつ「○ちゃん、今日お風呂入る前におトイレ座ってみよっか」と声をかけてみる。「いや」とつれない返事。それでも「がんばって練習してみようよ」と粘ってみるも「おトイレいやー」となかなか納得してくれない。仕方ないかと絵本の続きを読んでいると、家内と長女がお風呂から出てくる音がした。

 その音を聞いて、次女は僕の足とコタツの間から這い出て、すたすたとトイレのほうへ歩いて行った。「おトイレ座ってみるの?」「うん」。

 おしっこは出なかったけれど、えらいね、かっこいいね、おねえさんだねとべた褒めをしてやると、「○ちゃんかっこいい?おねえさん?」とお尻まる出しで得意げだった(おしっこ出てないくせに)。お風呂から出てきた家内にもトイレに座ったことを自慢して褒めてもらっていた。

 

 お風呂の終わりごろ、湯船のなかの次女が「おしっこでそう」と言う。慌てて体を拭いて「おかあさんにおトイレしてって言いな」と風呂場から出した。僕も風呂場から出て体を拭いていると、トイレのほうから家内の「すごーい」という大げさな声が聞こえた。これは、と思って濡れた頭でトイレへ行くと、満面の笑みでトイレにまたがっている次女がいた。「おしっこ、ちょろちょろってでた」とのことだった。

 お母さんにもお父さんにもお姉ちゃんにも、やんややんやの喝采を受けて気を良くした次女は「おばあちゃんにも、おしっこでた っていう」とのことであったので、頭を乾かしてやってからテレビ電話で報告させてやった。おばあちゃんもおじいちゃんも大喜びだった。

 

 子どもたちの歯を磨いてやっていると、家内が「今日のお帳面、見た?」と笑いながら見せてくれた。

 お帳面には次女の今日一日の様子が書いてあるのだけれど、その最後のほうに「…砂でままごとをしながら『お父さん しんどいねん きげんわるいねん』と本当かどうかは分かりませんが教えてくれました」と書いてあった。

 こちらがいくらか怒っても屁とも思っていなさそうで、まったくふてぶてしいやつだと次女のことを思っていたけれど、子どもというのはきちんと見ているし、わかっているものだ。

 お帳面の保護者からのコメントには「次女の言う通りです」と書いたうえで、今日の次女の活躍っぷりも書いておいた。先生もいっぱい褒めてもらうんだぞ。

 

 三月はいい月になりますように。

凡庸の凡庸(2020.02.09)

 前日は夜遅くまでPrimeVideoでキアヌリーブスのジョンウィックを見ていた。見たいときに見れるのでPrimeVideoは便利である。

 亡くした妻の残した愛犬を町のチンピラに殺された伝説の元殺し屋がそのチンピラの所属するマフィアごと壊滅させてしまう、という痛快無比なストーリーで、そのテキパキとした手際の良さに、殺し屋のことを仕事人とはよく言ったものだな、と思う。大都会の裏にうごめく暗黒社会の笑っちゃうような描写も男子ゴコロをくすぐる。2まで見たけどこの辺の設定がさらに大げさになっていたのでよかった。見終わってからジョンウィックのような手際の良さで皿を洗ったりして寝た。(それはそうと最近は人が死ぬ映画はうまく気持ちを切り替えないとしんどいときがある)

 

 どんなに夜更かしをしても日曜日の朝はプリキュアのために8:30までには起きないといけない。女児の親の辛いところである。さらに日曜の朝には子どもにくじ引きをさせてくれるパン屋が近所にあって、そこへ早起きの長女と朝ご飯を買いに行くのもなんとなく習慣になっている。だからそれに間に合うように起きなくてはいけない。しかもその日はいつもはダラダラ寝ているはずの次女まで起きてきて、置いていくわけにはいかず「早くしないとプリキュア間に合わないよ」と急き立てて着替えさせ、自転車に乗せてパン屋へ行った。我が家の日曜日はプリキュアが予定の起点である。寒い寒い朝だった。

 アンパンとクリームパンと唐揚げパンとたまごハムパンとカツサンドを買って、子どもたちはくじを引かせてもらった。すると二人とも一等賞(三連プリンorゼリー)が当たってしまい、そんなに食べられないし、いつも日曜日にしか来ない上にそんなに買い込むわけでもないのでなんだか申し訳なくなってしまい、片方の一等賞は辞退した。代わりにミッキーのボトルのエビアンをもらったが、長女は「せっかく二人とも一等賞だったのに」とやや不満げであった。帰るとプリキュアにはギリギリ間に合った。

 コタツに入ってプリキュアを見ながら子どもたちにパンを食べさせていると家内が起きてきた。家内が起きてくると布団が干せるので、干して、和室に掃除機をかけた。和室が掃除できるとそこに子どもたちを片づけておけるので移動してもらい、リビングに掃除機をかける。平日はなかなか掃除機をかけようという気が起きない。

 

 そのあと洗濯をしたり食洗器をセットしたりしているうちに、家内が出かける時間になった。大学時代の共通の友人が舞台に出るというのでその観劇に行くのだった。同じタイミングで僕と娘二人も公園に行った。

 少し前から長女は保育園でドッジボールをやっているそうで、それならと先日スポーツ用品店ドッジボールを買った。それを持って行って公園で遊んだ。家では長女も次女も布製の小さなボールを上手に投げたりキャッチしたりしているのだけれど、やはり子ども用とはいえ大きいようで、自在に投げたりキャッチしたりはできず、最終的にあっちこっちへ転がるボールをみんなでわあわあ言いながら追いかけていた。

 ボールに飽きると、みんなで遊具のほうへ行ってブランコを後ろから押してやったり(長女がいまの次女くらいの頃にはあまりブランコを押してやると怖がったものだけど、次女は姉と同じくらいに押せと言うのでこちらが怖いくらいだ)アスレチックに挑戦するのを見守ったりした。

 そろそろ寒いしお昼ご飯だし帰ろうと提案するも、もう少し遊びたいと言う。折衷案として何かもう一つ遊んだら帰ろうということになり、またボールで遊ぶことにした。同じように投げたり蹴ったり追いかけたりして三人で遊んでいると、お母さんに連れられた小さな男の子がこちらのボールを見ていた。

 どういう経緯だったかは忘れたのだけれど、たぶんこっちから声をかけてその子も一緒にボールで遊んだ。長女が上手に遊んであげるのはそんな気がしていた。しかし、次女もその男の子が自分より小さいことがわかったのか、いつもなら(というかつい直前まで)ボールを独り占めしたりして自分の好きなようにしないと気が済まないくせに、その男の子がボールを持って行ってしまってもニコニコしながら気長に待ってあげていたのには少し驚いた。家の中では赤ちゃんのような扱いをされ、本人も傍若無人にふるまっているのに、それ以外の場所では自分の立場とかそういうものを意識することもあるのだ。たぶん保育園のおかげだ、ありがたい。

 男の子のお母さんがやたらと恐縮しきりで、気を遣わせてしまったら申し訳なかったのでお昼ご飯の時間ということにして「またね」と切り上げて帰ることにした。

 

 帰りにはじゃんぼ総本店に寄ってたこ焼きとオムそばを買って帰った。ふと思うのだけれど、やっぱり生粋の大阪人はじゃんぼ総本店や銀だこでたこ焼きを買うのに抵抗があるのだろうか。生粋の大阪人である姉妹はそんなことは気にせず、モリモリとよく食べていた(次女はたこ焼きを「おもちみたいなのちょうだい」と言っていたけど)。

 その後みんなで昼寝をした。少し寝すぎた。お昼寝明けに一等賞のゼリーをみんなで食べた。

 

 夕飯にはカレーライスを作った。カレーにひき肉を入れると、どこをすくってもまんべんなく肉にあたるのでおいしい。豚肉も入れたら肉だらけのカレーになったけれど、次女がウインナーも焼いてくれとうるさいのでそれも焼いた。長女は目玉焼きを両面焼きせよというのでそれにも応えた。カレーを作ってる間子どもたちは二人で遊んでいた。きょうだいがいるのは助かるなあ。家内は夕飯ごろには帰って来ていた、と思う。

 

 家内の生理がいつもより遅く、もしやと思ったけど単に遅いだけだった。変な話だけれど別にそのつもりもなく、そもそも思い当たる節といえばそれでそうはならんやろ、みたいなアレだったので、まったく気持ちの準備ができておらず二人で少しそわそわした。でもそのそわそわは、期待とかワクワクが大きいそわそわであり、結果として勘違いみたいなものに終わってホッとするやらなんやらだったのだけれど、そういう事態になったときに二人は喜べるんだなということがわかった。よかった。先の見えない世の中において湯水のように金が使えるわけではない家計事情なので、新しい家族について冷静に考えると慎重になってしまうけれど、こんなふうに運命がおりてきたときに素直に喜べるんなら新メンバー、加入してくれてもいいなあ。お金があればもっといいんだけどね。

我々は「装う」ためのコストを見誤っているのかもしれない。

 ウルフルズの名曲「バンザイ」の歌詞の中に「ダサいかっこはしたくない 歳は取らないように」というフレーズがある。

 わかる。最近になって特に思うのは、年甲斐もなく流行りの格好するのは恥ずかしいと思いがちだけれど、本当は逆で、歳を重ねてきたからこそ適度に流行は取り入れていかないとどんどんダサくなって歳をとるスピードも加速していく。

 「シンプルなものは古びない」とか言ってたノームコアだって、多分いまなら「無課金」とか「パジャマ」とか言われるんだろう。まあ多少譲るとして白いTシャツにデニム、みたいなシンプルな格好をしてもいいけれど、3,4年前の白いTシャツとデニムを脱いで、新しくTシャツとデニムを買ってこなくてはいけない。微妙にシルエットとかが変わっていたりしておなじ白いTシャツとデニムに見えても、多分数年前のものと今年最新のものとではイケてる感とかが違うのだ。多分。

 そんなことにも気づかずに、一緒でしょ無駄無駄、とか言うようになってしまうと、みるみるダサい格好になり加齢は加速する。

 

 そんなようなことを少し前から思っていて、同じようなことをブログにも書いたような気がする。

 思うのは易いのだけれど、行うのは難く、それでもそれなりに今風であろうと、やはり先日都会に出かけて服を見繕ってきた。

 まあせっかく都会で買い物をするのだしシュッとしたナウいやつを、そうだな、ここは豪儀に2、3万円ほど払ってほいほいと買ってやれば僕もたちまちに流行りらしくなるだろう。そういうつもりで都会に出かけた。

 

 結局その日買ったのは、本とプラモデルと塗装下地のスプレーだった。シュッとしたナウい服は買えなかった。

 半日都会をあちこち歩いて、たくさんの服屋を覗いた。ちょっといいな、と思う服もあった。そのなかに値札を見て目ん玉が飛び出るような服はなかった。それでも都会で服を買うこともなく帰ってきた。自分には自分が着るべき一着を選べなかった。それを着ている自分が、かっこいいのか、今らしいのか、まったく想像できなかった。想像ができない服にお金をポンと払えなかった。

 

 プラモデルを買って帰りながら、僕は「装う」ということについて自分はコストを見誤っていたのではないかと考えたのだった。

 もしかすると、例えば2万円の服を一着バシッと買ってバシッとかっこよく着るためには、それ以外に10着くらい2万円の服をヘナヘナと買って帰って着てみてもなんか違うとヘナヘナとなる必要があり、それを経てようやく初めて2万円の服をバシッと一着かっこよく着れるのかもしれない。センスのいい人は10着も失敗する必要ないのかもしれないけれど、そのセンスを育てるのだってたくさん挑戦して失敗もしただろう。

 それを、この僕はといえば、豪儀ぶって、どれ2,3万円も出せばよろしい服が買えるのじゃろなどと思い込んでいた。しかし普段大してアンテナを張っていない素人が、急にふらっと都会にやってきてあまたに点在する服屋のさらに膨大な衣類群の中から、ナウでかつ自分の(曖昧な)感性や(ダサい)美意識にかなう一着を一本釣りできようはずもない。

 それこそまさに「おしゃれは一日にしてならず」(クソダサい)である。日ごろから都会に足を運んで、服屋を覗いたり道行くナウな若人たちの装いを観察して、そしてユニクロなら3着くらい買えそうな値段帯の服でも失敗を恐れずにどんどん買い、さらに家に帰って着てみて「なんか違うかも」と思いつつも試行錯誤して着こなす。そうやってようやくナウさと自分の感性と財布事情のバランスが見えてきて、気に入る一着がバシッと買えるのだろう。

 つまり、装うには日ごろから服屋を覗いて時間をかけ、毎シーズンのように色んな服を買ってみて金をかけるべきで、そうしてようやく自分に見合った装いが身に着くということだ。

 「自分は普段時間がなくてとりあえず適当に済ましているけれど、別に2,3万の服をホイッと買えないわけでもなし、その気になれば洒落た格好ができるんだぜ」とか言ってるやつ(自分)は装うための相応のコストを払えないからそういう格好をしているわけであって、やはりそのへんをナメていると、ダサいかっこでどんどん歳を取っていってしまうのだろう。悲しい。

 

 おまけに自分の格好を装うにあたっては客観的に見られないのも難しい。装ってみた状態を良し見ようと悪しと見ようと、とにかく自意識が邪魔をする。

 自分ではいいと思っていても傍から見ればクソダサかったり(そこで「自分の好きな格好だからいいのだ」と開き直れればいいけれど、歳をとらないよう流行を気にするのであれば、やっぱりマジョリティたちの感性にウケたい。自分の好きなアホな格好は、それはそれで別の話とする)、逆にそれを着ておけば間違いはないはずなのに「もうちょっとトガりてぇ…」と棚に戻してしまったりする。

 そういう「自らを」装うという点も、装いに鍛練が必要とされる根拠だろう。装うことについて鍛練をし、自意識のバランスを見出すためにたくさん失敗をして学ばなくてはいけない。これが本やプラモデルなら服に比べて自意識の入る余地はほぼないので簡単にポンと買えてしまう。

 

 やっぱり装うことは難しい。誰か服をポンと選んでくれたらいいのに(そうしたら「もうちょっと攻めたいんですよね…」とか言うから)