凡庸

週一くらいが目標です。

申し訳がないので一言も発したくありません。

 子どもが二人もいると朝はバタバタしていて、こちらとしてももう少し早く起きなくちゃなと思いつつもずぼらな夫婦なのでそうもいかない。怠惰だ。

 乾燥機から服を取り出して畳んだり、子どもたちを起こして着替えさせたり、朝食の準備をしたり、そもそも自分たちの準備をしたりと毎朝ゴチャゴチャやっている。

 とにかく、子どもたちが大人の言うことを素直に聞いてくれさえすれば割とことはスムーズに進む。聞いてくれさえすれば。普段はお利口さんな長女も、朝は眠くて寝起きが悪いこともあるし、気分とノリだけで生きている次女は尚更だ。

 

 その日の朝食はバタートーストと温めなおしたコーンスープで、要領のわかる長女は先に配膳されたコーンスープをおとなしくすすっていた。わけがわかってないのは次女のほうで、彼女としては早くパンが食べたい。ただトーストはまだ焼けておらず、先にスープ飲んでね、と家内が配膳しているその腕にぶら下がって「パンたべるのーー!」を邪魔をした。

 そのせいで朝の、一分一秒を争う朝の貴重な朝のその時間に、哀れにもコーンスープは床にぶちまけられてしまったのだ。

 本来なら早く片付けてしまって次なる準備にとりかかりたいところだ。ただ、次女の乱暴狼藉は今回たまたま起こったことではなく、彼女はこれまでも度々こうした事態を引き起こしている。

 そのため、朝の、一分一秒を争う貴重な朝のその時間に、次女はかがんだ母に目線をしっかり合わせられ、両肩をしっかり捕まえられて「こら!ごめんなさいは⁉」と詰められるのだった。

 トースターがチンと鳴り、床も片づけたいが子どもたちの朝食も準備しなくちゃいけない。とりあえず僕はトーストにバターを塗りながら、次女の反応を見ていた。

 

 彼女は頑なに「ごめんなさい」を言おうとしない。わりに言葉は早いほうで、家では誰に話すともなく一方的にしゃべり続けているし、ウロウロしているうちにうっかり誰かの足を踏んでしまって「いたっ」と言われればとっさに「ごめんねー」と言える。

 だから「ごめんなさい」が言えないのではない。彼女は、言わないのだ。

 小さな口を真一文字に引き結んで、どんなに母に「ちゃんとごめんなさいしなさい」と怒られようとそれに応じようとはしない。

 

 パンにバターを塗って長女とまだ着席していない次女の席に配膳する。「ちゃんとごめんなさいしないとダメだよ!」と母親に怒られながら、次女は空咳をしてごまかそうとしている。

 幼児が空咳をしてごまかそうとしている!

 家内には申し訳ないけれど、僕は本当にびっくりしてしまった。そこまでして「ごめんなさい」を言うことに抵抗があるのか。次女は口元をもごもごさせていた。

 

 びっくりしてしまった、とは言ったけれど、実はこの光景は初めてみる光景ではない。もちろんついこないだも次女は同じように詰め寄られていたのだけれど、そうではなくて、いまおとなしくバタートーストをかじりながら「ごめんなさいせなあかんでー」と言っている長女もまた、同じくらいの頃に頑なにごめんなさいを言おうとしなかったのだった。

 

 なぜ幼児はこういうときにごめんなさいを言えないのか。

 たぶん、本当に申し訳ない事態になってしまっていることが、小さな彼女たちの胸にもよーくわかっているからだと思う。軽く人の足を踏んずけてしまったどころではない、無残にも床に広がっているコーンスープ。

 「ごめんなさい」を言うということは、この今目の前に(文字通り)広がっている甚大な事態を我が身のこととして引き受けるということだ。次女は空咳をしたり口をもぐもぐさせたりしながら、その覚悟を決める心の準備をしているのかもしれない。

 

 次女はようやく小さな口を開いて「ごめんなさい」と言った。母親に「ちゃんと言いなさい」と言われ、もう一度ちゃんと口を開いて「ごめんなさい」と謝ることができた。ようやく床のコーンスープは拭き取られ、次女は新しいスープと共に朝食の席に着いた。

 

 幼児は「ごめんなさい」を言うのにも一苦労だ。きっとそれは彼女たちが「ごめんなさい」という言葉と事態を引き受ける覚悟とを分かちがたく結びつけているからだ。

 大人は割と平気で「ごめんなさい」と言える。きっとそれは僕らが「ごめんなさい」という言葉を発しながらも心では全く別のことを考えることができるからだ。

 成長するということは、言葉を言葉だけで上手に使えるようになることも含まれているだろう。そうやって、だんだん、あんなふうなギリギリいっぱいの、気持ちがかろうじて言葉の形をとっているような、そういう言葉を発することができなくなるだろうし、そもそも言葉とは自分たちにとってそういうものだったということすら分からなくなっていってしまうのかもしれない。

 

 単にうちの子どもたちが意固地なだけかもしれない。